■将軍再上洛 【坂】文久4年1月8日、将軍家茂が海路大坂に到着しました。江戸を出立以降、諸藩の船と合流し、大集団での到着となりました。(幕府の船は翔鶴丸、順動丸、朝陽丸等、薩摩のセーラ、筑前の大鶴丸) 関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」■テーマ別元治1「将軍再上洛へ」 参考:『徳川慶喜公伝』3(2002.2.27) ■朝廷参豫会議 【京】文久4年1月8日(1864年2月15日)、参豫の勤務の「定日」につき、参豫諸侯(松平春嶽・松平容保・伊達宗城)が参内し、朝議に参加しました。この日は、前観修寺門主の親王宣下、山内容堂の参豫辞退、島津久光の官位問題について下問がありました。(参豫辞退を願い出ている容堂は欠席。体調不良の一橋慶喜も欠席) 『続再夢紀事』によれば、下問事項とそれに対する春嶽の上答は以下の通り。 ◆前観修寺門主の親王宣下と宮家創設
◆山内容堂の参豫辞退
◆島津久光の叙任
*** 実は、この日の参内前、春嶽・久光は容堂を訪ねていましたが、その際、久光の叙任問題が話題にのぼっていました。『続再夢紀事』によれば、そのときのやりとりは以下の通り。
<ヒロ> 朝議への参豫は、形式上は2回目となりますが、前回(1月5日)は書面の下問であり、回答は後日という形態で、「会議」とはいえません。しかも下問事項は、朝廷側内部での検討不足で用意されたもので、結局朝廷側の意向で廃案になっていました。このため、このサイトでは、下問形式ではありますが、口頭でのやりとりがあり、会議が成立した今回を、第1回めの朝廷参豫会議とみなすことにしました。「参豫会議」の頭に「朝廷」をつけたのは、参豫諸侯が朝廷外で集まって行う会合との混乱を避けるためです(このサイトでは「参豫諸侯集会(または会合)」と呼んでいます)。 なお、この日の下問の三か条の一つ目は、1月4日の参豫諸侯(慶喜・容保・春嶽・宗城)の建言(こちら)を受けたものでした。 関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別元治1「朝議参豫の動き」 参考:『続再夢紀事』ニp331-334(2007.12.18. 12.19) ■横井小楠 久々の小楠登場なので、後日、気合をいれて???UPします! |
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