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文久2年12月28日(1863.2.16):
【京】伊達宗城・池田慶徳ら、中山忠能・三条実美らに在京諸侯退去を主張/
容保、右大臣二条斉敬に謁し、さらに議奏・伝奏などを歴訪
【江】大久保一翁、越前藩中根靱負に書簡。 

■公武合体派の長州・土佐排撃の動き
【京】文久2年12月28日、前宇和島藩主伊達宗城(伊予守)・阿波徳島藩世子蜂須賀茂韶(淡路守)・因幡藩主池田慶徳(相模守)・肥後藩主弟長岡護美(良之助)が関白近衛忠煕邸を訪ね、議奏の中山忠能・正親町三条実愛両大納言、飛鳥井飛鳥井雅典・三条実美両中納言、阿野公誠宰相、及び伝奏の坊城俊克大納言・野宮定功宰相らと会して、諸侯の退京を主張しました。

これに対して(長州・土佐寄りの)三条は反論して<将軍上洛が近づいたので、幕府の機嫌取りにそのような事をいうのだろう。建白の文面を見れば勤王の志は薄く思われる>と言い、議論噴出して結論はでませんでした。

<ヒロ>
これも、『伊達宗城在京日記』に詳しいことが載っている模様です・・・。

それにしても、肥後藩弟の長岡護美(21歳)には肥後勤王党激派の住江松翁・轟武兵衛・宮部鼎蔵・河上彦斎ら(横井小楠暗殺を指示した人々です←しつこい^^;?)が随従してきているのですが、こんな長州・土佐排撃につながる建白をするところは公武合体派のようですよね?もともと肥後藩は親幕的だったのを、勤王党の運動もあり、朝廷からの京都警衛の要請を請けて藩主上京を決めたので、護美が勤王党と先発して12月4日に入京していました。しかも、実は、護美は小楠とも親しく、勤王党より実学党に傾斜していた人物なのです。だから、公武合体派寄りの意見をもっていても不思議ではなかったりします。一方で、この建白に対する勤王党の反応とかもわかれば面白いのですけれど(護美の意向とは逆に、長州・土佐と連携して「暗躍」してたことは想像に固くないですよネ)、探せません・・・うぅ。

参考:『徳川慶喜公伝』2(2004.2.16)
関連:◆12月26日(2.14):【京】宇和島藩主伊達宗城・因幡鳥取藩主池田慶徳・阿波徳島藩世子蜂須賀茂韶、近衛忠煕関白に在京諸侯退去と公武合体の国是決定を建白。(長州・土佐の排除が目的)

■守護職着任
【京】
文久2年12月28日、京都守護職松平容保は、右大臣二条斉敬に謁見し、さらに議奏・伝奏その他の公卿を歴訪しました。

<ヒロ>
この後、容保は斉敬と良好な関係を構築し、文久4年(元治元年)2月5日には二条家と「両敬の約」を結んでいます(日付は『会津松平家譜』)。「両敬の約」とは「両敬相敬し、親交姻戚に亜くなり」というものだそうです。

実は会津藩は、水戸藩・薩摩藩・土佐藩などと違って公家との姻戚関係にありませんでした。文久2年9月に容保が守護職を拝命してから、容保は家老田中土佐らを京都に先発させて下準備を行わせましたが、。『京都守護職始末』によれば、公家と姻戚関係になく、朝廷の事情をうかがい知ることが困難でした。そこで、頼ったのが山陵奉行である戸田忠至でした。忠至は会津藩の長沼流軍学を学び、かつ昔から戸田家と会津松平家とは親密な関係だったようです。忠至は宗家である議奏・正親町三条実愛(当時は公武合体派)を紹介し、恐らくそれがきっかけで、土佐らは三条実美とも会見することができたといいます。(新選組を預かる会津藩と山陵奉行である戸田忠至との良好な関係も、伊東甲子太郎らの衛士拝命を後押ししたような気がしています^^)

参考:『会津松平家譜』、『京都守護職始末』(2004.2.16)

■大久保一翁
【江】文久2年12月28日、失脚・隠居した幕臣大久保一翁は越前藩用人中根靱負(雪江)に書簡を遣わしました。

<ヒロ>
久々の一翁登場ですが、書簡を口語訳する時間がありません。一翁は小楠と並んでひいきの人物なので、時間のあるとき、いずれ・・・。

参考:『続再夢紀事』一(2004.2.16)
関連:■テーマ別文久2「大久保一翁

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