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文久2年12月26日(2.14):
【京】前宇和島藩主伊達宗城・鳥取藩主池田慶徳・徳島藩世子蜂須賀茂韶、
近衛忠煕関白に在京諸侯退去を建白。(長州・土佐の排除が目的)
【江】水戸藩主徳川慶篤、戊午の勅諚奉承を藩内に布告・
連座して処罰された藩士を赦免。

■幕府の公武合体派連合策
【京】文久2年12月26日、前宇和島藩主伊達宗城(伊予守)・阿波徳島藩世子蜂須賀茂韶(淡路守)・因幡藩主池田慶徳(相模守)が関白近衛忠煕に在京諸侯退去を建白しました


その概要は<最近関東でも叡慮を遵奉し、大樹公(将軍)の誠実も顕れたので、在京の諸大名は上洛以前に皆、引き払い、又勅命で出京した者はかねて防禦を命じられた場所を守衛するよう命じ、その上で公武合体して国事を定めるべきである>というものだったようです。

<ヒロ>
『徳川慶喜公伝』によれば、これは薩摩藩の長州排斥運動の結果なのだそうです。長州排斥運動は、三条実美・姉小路公知の両勅使及び長州・土佐藩士が東下して京都に不在であることに乗じて始まりました。文久2年12月、薩摩藩士藤井良節は近衛関白に<長門守(長州藩世子毛利定広)が帰京・復命すれば、その功を賞して帰国の暇を賜るように>と進言していますが、この日の宗城らの建白も、良節の入説の結果ではないかというのです。確かに、公武合体して国事を定めるという方針は幕薩連携の公武合体派会議策と同じであり、薩摩藩の運動の影響が感じられる気がします。

このへんの動きはたぶん、『伊達宗城在京日記』にのってるんだろうと思うんですけど・・・。手が出ません〜。

参考:『徳川慶喜公伝』2(2004..2.14)
関連:■テーマ別:将軍上洛下準備:京都武力制圧VS幕薩連合による公武合体派会議、■開国開城:「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策

■安政の大獄関係者の大赦
【江】文久2年12月26日、水戸藩主徳川慶篤は戊午の勅諚奉承を藩内に布告し、連座して処罰された藩士を赦免しました

参考>『徳川慶喜公伝』2(2004..2.14)
関連:■開国開城:「安政5〜6(1858-59)戊午の密勅と安政の大獄」「安政6〜万延1(1859-60):勅書返納問題と桜田門外の変」■水戸藩かけあし事件簿■テーマ別:「安政の大獄関係者の大赦と責罰

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