2月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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■「士道忘却」事件(1) 【江】文久2年12月19日夜、越前藩政治顧問の横井小楠(肥後藩士)が、肥後藩江戸留守居役吉田吉之助の別邸(檜物町の町屋)で、肥後勤王党の刺客に襲われました。 小楠は前越前藩主で政治総裁職松平春嶽とともに翌1月15日に上京することが決まっており、吉田から上京前に話を聞きたいと招かれていました。藩士都築四郎らも同席し、2階の座敷で話をし、その後宴会になっていた五ツ(20時)過ぎ、「狼藉者」が抜刀して斬りこんできました。端近に座っていた小楠は、手元に両刀を置いておらず、常盤橋の越前藩邸まで駆け戻り、両刀を取って引き返しました。ところが刺客は既に姿を消しており、吉田は重傷(その後死亡)・都築は軽傷を負っていました。 <ヒロ> 管理人にとっての「そのとき歴史が動いた」事件です。この件で、小楠は難を逃れましたが、肥後藩から応戦しなかった点を「士道を忘却」したとして罪に問われ、上京を目前にして春嶽の側を離れることになるからです(詳細は12月20日、21日の「今日」で)。刺客は小楠の命をとることには失敗しましたが、結果として、中央政界から葬り去ることには成功したわけです。 ○肥後勤王党 刺客は肥後勤王党激派の堤松左衛門(25歳)、及び堤に同調した江戸藩邸の足軽黒瀬一郎助・安田喜助でした。 文久2年の肥後勤王党は、「住江(松翁)を頭領として轟(武兵衛)・宮部(鼎蔵)を幕僚」とする激派が勢力を握る組織でした(河上彦斎もその一員)。激派は、「無条件攘夷」を主張しており、開国論の小楠を仇敵視していました。小楠暗殺未遂につながる文久2年後半の勤王党の動きは以下の通り。
『轟武兵衛引取書』によれば、宮部・轟が入京した12月4日、堤が彼らを訪ねて、小楠暗殺計画を打ち明けたといいます。堤は宮部に学問を、轟に武術を学び、両名の勧めで勤王党に入った人物です。脱藩して長州にあった堤は、長州・土佐藩士が小楠の暗殺を計画していることを知り、他藩士に暗殺されては肥後藩の恥だと自分が有志とともに小楠を暗殺すると誓約し、京都に上って宮部らを待ち受けていたそうです。計画に同意を得ると、江戸に急行し、暗殺のために小楠に何度も面会を求めたが、多忙を理由に断られ、黒瀬・安田を引き入れてこの日の襲撃に及んだのだとされているそうです。ただし、『横井小楠』(圭室諦成著)は、『引取書』には勤王党幹部に塁を及ぼさない為の虚構があるとし、実のところは、小楠暗殺は住江が考え、宮部・轟らが計画し、実行者に堤を指名したのだと推測しています。 ○襲撃者の最期 堤らは襲撃後、すぐに京都へ向い、轟に復命しました。小楠の暗殺には失敗しましたが、江戸留守居役の吉田を死にいたらしめ、藩士都築に怪我を負わせています。轟は助命を歎願したそうですが成功しませんでした。襲撃者3名はいずれも非業の最期を遂げています。
○暗殺の警告 実は、小楠は、この日までに、度々、暗殺の警告を受けていました。9月4日には中根雪江を訪ねた桂小五郎が <最近、世間では、横井小楠を勤王の志がないとし、このような人物が越前公の参謀であっては天下の為にならないと評している。その中には、今後、道で出会えば容赦なく刺し殺すと言う者がおり、また、熊本藩士にも横井は、他藩の者の手を煩わす、自分たちが殺すという者もある>と警告していました。同月14日には、周布政之助が、幕政改革に学者から非難が起る理由は、江戸には高名な学者が多いのに、「辺阪の肥後より横井如き田舎学者を呼び登せて大政改革の議に吻を容れさせらるるが不平の根本」のようだ述べました。その上で、小楠は江戸の学者のみならず京都においても評判が芳しくないので、上洛の際、もし連れていけば、島田左近のような目にあうかもしれず、国許に遣わしてはどうかと忠告していました(こちら)。周布・桂自身も小楠には疑念を抱いていたようですが、同月21日に小楠に直接会って「疑因氷解」したようです(こちら)。その後も、桂は、肥後藩中に長州・土佐と協力した暗殺計画があるとの情報を報せていますし、土佐藩の中にも暗殺計画を報せた人物がいました。 参考:『続再夢紀事』一・『横井小楠』・『横井小楠のすべて』・『横井小楠 その思想と行動』・『横井小楠 儒学的正義とは何か』・『修補殉難録稿』・『明治維新人名辞典』(2004.2.7) 関連:■今日:士道忘却事件「(1)小楠、肥後勤王党刺客に襲撃される」「(2)肥後藩、越前藩に対して小楠引渡しを要求」「(3)越前藩、藩主同士の直談まで従前通り小楠を預かりたいと申入れ」 「(4)肥後藩、小楠の越前藩預りを承諾」「(5)小楠、福井に向って出立。」■テーマ別:「横井小楠」 |
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