■長州処分 【京】文久4年1月10日(1864年2月17日)、因幡鳥取藩主池田慶徳は、家老荒尾但馬を名代として上京させ、(1)速やかに朝議を確立して攘夷の叡慮を貫徹すること、(2)三条実美ら七卿及び長州藩主毛利敬親父子を寛典に処してその入京を許すこと、を朝廷に建議しました。 関白に宛てた上書の概容は以下の通り。
慶喜にも同様の内容の書簡が届いたそうです。 <ヒロ> 因幡鳥取藩主池田慶徳は、禁門の政変直後の文久3年8月23日に、備前岡山藩主池田茂政と連署して七卿・長州藩擁護の上書を提出しています。七卿・長州藩の行為は攘夷の叡慮を貫徹しようとしたためで、寛大な処分が必要だというものでした。実は、池田慶徳・茂政は、養子で、ともに前水戸藩主徳川斉昭の実子です、斉昭ゆずりの攘夷強行派で、禁門の政変前にも、長州藩及び尊攘激派の唱える即時親征には反対していたものの、それは親征よりもまず攘夷履行を幕府に厳達すべきという主張で、長州藩には同情的でした。同年9月8日には藩地の事情を理由に帰国しましたが、中川宮からは、旗幟不鮮明なことを指弾されていたようで、そのような政治的な事情ゆえの帰国だと推測されています。 池田慶徳は一橋慶喜とも兄弟になるわけで、だからこそ、前日の参豫諸侯会合で、征長戦の際に外様藩はのぞくと議定した際、慶喜は「因幡・備前は加えたい」というようなことをいったわけです。頼りにしたいと思っていたわけですが・・・。 関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3「長州・七卿処分」「長州進発&家老の上京・嘆願」■テーマ別元治1「長州・七卿処分」 参考:『維新史料綱要』五、『徳川慶喜公伝』2p313(2007.12.20) |
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