12月の「今日 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ
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■将軍再上洛 【京】文久3年10月26日、京都守護職松平容保は、東下する軍艦奉行並勝海舟に将軍上洛の周旋を求めました。
実は勝は同月23日朝、所司代稲葉正邦に呼び出されて<軍艦にのって帰府するようにとの老中のお達しだ>と告げられ、そのことを伝えるために容保を訪ねましたが、折悪しく容保は留守でした。同25日、神戸で出港の準備を整えている勝のもとを会津藩士中沢帯刀が訪ね、容保が用談があるので再度上京するよう求めました。それで、同人とともに上京し、施薬院に容保を訪ねたのでした。 なお、勝は春嶽からも慶喜と家茂の上洛周旋を依頼されていました(こちら) ■参与会議へ 【京】文久3年10月26日、前越前藩主(前政事総裁職)松平春嶽は、前土佐藩主山内容堂に上京を促す書簡を再び認めました。
<ヒロ> このときの春嶽の見込みでは、慶喜は11月5日頃に着坂し、同月7日には一同(慶喜・春嶽・容堂・宗城・久光)が集会することになっていましたが、慶喜の着坂・入京はこれより遅れ(↓)、一同の顔合わせは見込みよりかなりずれこむことになります。 参考:『続再夢紀事』ニ(2004.12.11) ■慶喜再上京 【江】文久3年10月26日、将軍後見職一橋慶喜は、幕府の軍艦操練所から、急遽、海路上京の途につきました。 <ヒロ> 慶喜随従の講武所200名、一橋家床机廻約1,000名は前日に陸路京都に向かって先発していました(春嶽が是非とも避けたかった「下策」ですこちら)。 慶喜が海路をとったのは、宿場宿場の本陣に放火するという予告状があったり、側用人中根長十郎が暗殺されたり(こちら)という事件があり、陸路を避けたかったからだと思います。 慶喜は浦賀で勝海舟の率いる軍艦順動丸が入港してくるのを待ち受け、11月1日に移乗し(勝は下船して江戸に向かいました)ました。陸路をとった兵士らと同時に入京するために航海を急がず、兵庫に着港したのが同月12日、上陸は同20日、大坂入城が21日、入京は26日・・・出立から1ヶ月後でした。 参考:『徳川慶喜公伝』2、『勝海舟全集1・幕末日記』(2001.12.6, 2004.12.11) 関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別文久3年:「横浜鎖港交渉」「将軍・後見職の再上洛」 「参与会議へ」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 ■徳川慶喜日誌文久3 ■長州進発 【長】文久3年10月26日、都落ちした激派六卿が三田尻から藩庁のある山口の氷上真光寺へ移りました。 七卿のうち沢宣嘉が生野に脱走したので、海岸に在り、出入り自由な三田尻に諸卿が滞留するのはよくないという議論が起こったからで、藩内不穏の源を断つためだといわれています。 ■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」 「長州進発・家老の上京嘆願」■長州藩日誌文久3 参考:『修訂防長回天史 四上』p558 |
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