2月の「幕末京都」 幕末日誌元治1 開国開城 HP内検索 HPトップ

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文久4/元治元年1月15日(1864.2.22)
【京】将軍家茂二度目の入京、二条城へ
【京】将軍家茂、慶喜に「万事依頼」と述べ、
老中の慶喜に関する「従来の嫌疑」も「氷解」

■将軍再上洛
【京】文久4年1月15日(1864年2月22日)午後、将軍家茂が入京し、二条城に入りました。登城した後見職一橋慶喜から話をきくと、将軍や総裁職・老中は大いに喜び、将軍は慶喜に「万事依頼」すると述べたそうです。また老中の慶喜に関する「従来の嫌疑」も「氷解」した模様でした

(1)将軍後見職/朝議参豫・一橋慶喜の登城
慶喜は早速将軍に謁見しました。この日の謁見及びその前後の老中らとの面会は、慶喜が松平春嶽(前越前藩主・朝議参豫)に語ったところによれば、次のような様子でした(*注1)。

1)将軍の反応
慶喜は将軍に、(前回の上洛時と違い)朝旨が懇篤であり、在京諸侯も厚く周旋した状況を詳述し、<幕府の御為にこの上もない好都合ですが、この際、幕府に於いても深く御心を用いられ、長く在京され、公武一和を図られますように。ことに長州処分については大樹公(=将軍)自ら御進発の御奮発がなければせっかくの好機が無駄になり、「今後衰運御挽回の期」はないでしょう>等言上したそうです。将軍はことのほか悦び、「此上にも萬事依頼すべければ十分に尽力ある様、尤もいつ迄も在京すべし」と答えたそうです。

2)総裁職・老中の反応
○慶喜への疑念氷解
政事総裁職松平直克や老中らも大変喜び、慶喜に関する「従来の嫌疑までも頓に氷解せる模様」だったといいます。慶喜が、将軍の御前を退いて御用部屋に入ったところ、老中の慶喜への対応は「大に和好に至」っていたそうです。慶喜が、先日の白馬節会の際に気づいた紫宸殿の屋上の損傷について、同時に上洛の上、将軍の考えで修復するようしてはどうかと相談したところ、老中らは特に感じいった様子だったとか。

○松平春嶽ら朝議参豫の尽力理解
将軍との謁見に先立って、慶喜が午前中に老中と面会した際、老中らは春嶽のことを、<隠居の身で上京とはいらざることである上、人心を撹動させることになり、いよいよ難しい>など悪口していたそうです。

しかし、午後には、昨年来の春嶽の周旋の容易ではなかったことを理解し、にわかに<大樹公御参内の節、春嶽殿にも供奉ありてはいかが>と慶喜に尋ねたそうです。慶喜が<隠居の身なので供奉はいたすまい>と返すと、<これほど尽力した方の供奉がなければ朝廷の御印象もどうなるでしょう。幕府から供奉するように命じては他に影響がありますので、あちらから願う様にはならないでしょうか>というので、<是非とも供奉するようにとのことであれば、願う方になってよいだろう>と答えたそうです。老中は、さらに、伊達宗城や山内容堂(いずれも春嶽同様、朝議参豫に命じられた前藩主)も春嶽に準じて供奉があって然るべきだと言ったそうです。

(*注1)『続再夢紀事』では、上記内容は、翌16日に春嶽を呼び出した慶喜が、「本日」のできごととして語ったと記録されており、『維新史料綱要』も16日のできごととしていますが、『徳川慶喜公伝』は15日登城説(「昭徳公事蹟」「昭廟御略記」が15日としているそうです)ですので、ここでは15日説を採りました。慶喜と春嶽の会談は16日だけど、慶喜は「昨日」のできごととして語ったという折衷案じゃだめでしょうか(笑)?

<おさらい:横浜鎖港問題と家茂の再上洛>
攘夷実行を約束して東帰した将軍でしたが、横浜鎖港は実行されず、尊攘急進派が牛耳る朝廷からは 6月25日、将軍譴責の勅諚が下され(こちら)、勅諚伝達の使者として、 7月15日、禁裏附武士小栗正寧が江戸に到着しました。善後策を協議した幕府は、後見職一橋慶喜に関東の状況を説明させるために上京させようと決め、7月18日に、慶喜に上京の台命が出されました。しかし、幕府は鎖港交渉開始を決定したため(老中以下有司と在府諸侯に不実の交渉開始を通達こちらこちら)、8月13日、慶喜の上京は延期されていました。

8月18日の政変で、攘夷親征を主唱した尊攘急進派七卿や長州藩は京都は追放されましたが、孝明天皇の攘夷の意思は変わらず、19日に、朝廷は、攘夷督促の令を出しました(こちら)。政変後、幕府には、将軍が再上洛し、その上で開国・鎖国の利害を奏上すべきだとの意見も起こりましたが、23日、慶喜と老中板倉勝静の主張で、鎖港の上での将軍上洛を決定しました(こちら)

一方、9月1日、朝廷は攘夷別勅使有栖川宮・副使大原重徳の東下を決定し、守護職・松平容保に攘夷別勅使に随行を命じるとともに、後見職一橋慶喜に鎖港督促の沙汰を下しました(こちら)。また、14日には、政変後の騒然とした情勢下の天機を伺い、攘夷(横浜鎖港)遅延が止むを得ない事情を説明するために上京・参内した在京老中酒井忠積に対し、改めて攘夷を督促しました(こちら)。同日、江戸では老中が米蘭公使と会見し、横浜鎖港交渉が開始され、27日、朝廷に、鎖港交渉開始に関する慶喜・老中の上奏書が、容保より奏上されました(こちら)。また、6日には前尾張藩主徳川慶勝が別勅使東下中止の上書を提出しました(こちら)。7日、朝廷は別勅使東下猶予を決定するとともに、横浜鎖港交渉について聞くためとして、慶喜の上京を命じると(こちら)、さらに、10日、将軍の上洛も命じていました(こちら)。幕府は、17日、将軍上洛を辞退し、慶喜に上京を命じました(こちら)。しかし、朝廷は、再度、将軍上洛を命じ(こちら)、11月5日、幕府は将軍上洛の勅書を奉承しました(こちら)

しかし、監察(目付)ら有司中にはなおも上洛反対を唱える者が多く(こちら)、将軍の上洛はすぐには実現しませんでした。将軍上洛を促すために東下した町奉行・永井尚志の説得により、11月26日、幕府は、ようやく12月下旬の将軍出立を内定しました(こちら)

ところが、肝心の横浜鎖港については、9月に各国公使と交渉を開始したものの、交渉は難航していました。そこで、本国政府と直接交渉させるため、鎖港交渉使節をヨーロッパに向けて出立させることになり、11月28日、幕府は外国奉行池田修理らを横浜鎖港談判使節に任命しました。使節は12月26日、家茂から委任状を下付され、29日、仏国軍艦ル・モンジュに乗り、出航しました(こちら)

家茂は、使節に委任状を下付した翌日の12月27日に江戸を出立し、28日、軍艦翔鶴丸で海路上洛の途につきました。 翌文久4年1月8日、大坂に上陸し、この日、入京しました。

<ヒロ>
朝議参豫と後見職という慶喜の微妙な立場などなどについて書きたいのですが、明日は仕事始め。後日〜。

***
その他在京の諸侯も挨拶に登城しましたが、会津藩主・京都守護職松平容保は先日来の病のため、公用方小室金吾を遣わしました。

また、同日、容保の実弟にあたる桑名藩主の松平定敬が、入京しました。定敬はのちに京都所司代に任命され、慶喜・容保とともに、いわゆる「一会桑」の一翼を担うことになります

関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」■テーマ別元治1「将軍再上洛へ」「朝議参豫の動き
参考:『徳川慶喜公伝』3・『七年史』ニp94(2002/2/27)、『続再夢紀事』ニ p353-354 (2007.1.3)

参豫諸侯の動き/長州処分
【京】文久4年1月15日(1864年2月22日)午後、朝議参豫の伊達宗城・山内容堂が島津久光を訪ねて時事を談じ、政令帰一を急務とし、長州処分は幕府に委任するようにとの建議をすることを合意しました。(『伊達宗城在京日記』をGETしたら追加修正します〜)

参考:『玉里島津家史料』ニp743、『維新史料綱要』五、『伊達宗城在京日記』p309-310(2007.1.3、2010.1.3)
関連: ■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3「長州・七卿処分」「長州進発&家老の上京・嘆願」■テーマ別元治1「長州・七卿処分

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