3月トップ 幕末日誌文久3  テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

前へ   次へ

文久3年1月17日(1863.3.6):
【京】将軍上洛延期:中根、大久保利通・本多弥右衛門・藤井良節が内談。
関白近衛忠熙・右大臣鷹司輔煕だけに内談し、勅許を得た上で
一件を議奏に下して詮議させるよう周旋することに決定

【京】朝廷、長州藩主毛利敬親を参議に任命/

■将軍上洛延期運動
【京】文久3年1月17日、京都の情勢の厳しさを感じた中根雪江・大久保一蔵(利通)は、本多弥右衛門・藤井良節とも相談の結果、将軍上洛延期を関白近衛忠熙・右大臣鷹司輔煕だけに内談し、天皇の許可を得た上で一件を議奏に下し、同時に、委細は大久保にきいて詮議せよと命じるよう周旋することに決めました

この日、越前藩用人中根靱負は、大久保利通から急に呼び出され、四条東洞院大文字屋に訪ねました。本多弥右衛門も同席していました。

実は、前夜近衛忠煕を訪ねた大久保が、江戸で協議したことを報告したところ、忠煕はその内容に同意したものの、鷹司輔熙に関白宣下の内意があったので、何事も鷹司に言上する方がよいと言ったそうです。そこで鷹司を訪ねて同意を得た大久保は、次に中川宮(当時青蓮院宮)を訪ねましたが、所労の上、国事御用掛を辞退中だからとして面会を断られ、取次ぎを通じての言上しかできませんでした。その理由は、勅使として東下していた三条実美が、帰京以来「殊の他暴激にて頻りに無謀の攘夷を主張せられ殆ど当るべからざる勢」で、近衛も中川宮も最近参内をとりやめており、その他正親町三条実愛も参内を辞退しているとのことでした。

この話を聞いた中根は当惑して、<情況が一変した上は、春嶽が上京してもどうにもならず、将軍上洛はなおさらのことなので、もう一度幕議をもって、春嶽・将軍の上洛を一事延期することはできないだろうか>など色々考えているうちに、藤井良節がやってきて相談に加わりました。相談の結果、将軍上洛延期は近衛・鷹司だけに内談して奏聞し、天皇の許可を得た上で一件を議奏に下し、同時に、委細は在京中の大久保にきいて詮議せよ命じるようを周旋することになりました。大久保が議奏の問いに十分答えることができれば、成功するかもしれないと考えられたからです。

参考:『続再夢紀事』一(2004.3.6)
関連:■テーマ別:「将軍上洛下準備:京都武力制圧VS幕薩連合の公武合体派会議薩摩藩の将軍上洛延期運動」 ■開国開城:「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」 「後見職・総裁職入京-公武合体策挫折と攘夷期限


■長州藩
【京】文久3年1月17日(1863.3.6)、朝廷は長州藩主毛利敬親(当時慶親)を参議に任命しました
当初、敬親は、幕府を経ずに直に朝恩に浴するのは制度に背くと固辞しましたが、朝廷は拝受した後、在京の一橋慶喜に通報すればよい、と辞退を許しませんでした。

<ヒロ>
敬親が気にした「制度」は禁中公家諸法度で、当時、武家(諸大名・旗本など)の官位は公家当官の外だと定められていました。武家の叙位・任官にあたって朝廷が幕府を無視し、在京の後見職一橋慶喜にも協議しないということは、これまでではありえないことでした。

また、参議は太政官の官職で、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣(以上、「長官(かみ)」)、大納言、中納言の次に位置しています(以上、「次官(すけ)」)。官位には家格というものがあり、参議が許される外様大名は加賀前田家だけでした。ちなみに、武家では、当時、将軍家茂が内大臣、尾張藩主徳川慶勝が大納言、紀伊藩主徳川茂承、水戸藩主徳川慶篤、一橋慶喜、及び田安慶頼が中納言でしたから、参議がどれくらいのポジションか想像がつくと思います。

参考:『徳川慶喜公伝』2、『修訂防長回天史』(2004.3.6)

前へ   次へ

3月トップ 幕末日誌文久3  テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ