文久3(1863) |
<要約>
文久3年、将軍後見職一橋慶喜や政事総裁職松平春嶽が将軍徳川家茂に先発して入京した。しかし、京都の情勢はますます尊攘急進派に有利で、公武合体派公卿の影響力は著しく低下し、公武合体派連合計画は挫折した(A.公武合体派連合計画の挫折)。さらに尊攘急進派に攘夷期限を明確にすることを迫られた慶喜は、将軍帰府後20日以内に行うと、とうてい実行不可能な回答を与えてしまった(B.攘夷期限約束)。 |
幕府/江戸 | 将軍:家茂 | 老中:板倉勝静 | 首席老中:水野忠精 |
幕府/京都 | 後見職:一橋慶喜 | 総裁職:松平春嶽 | 守護職:松平容保 |
老中格:小笠原長行 | 所司代:牧野忠恭 | ||
朝廷 | 天皇:孝明 | 関白:近衛忠煕⇒鷹司輔熙 内覧:近衛忠熙 |
国事扶助:中川宮(青蓮院宮) |
◆後見職・総裁職・守護職の入京文久3年1月1日、後見職一橋慶喜が入京した。慶喜は上京にあたって実家水戸徳川家から家老武田耕雲斎(たけだ・こううんさい)をはじめ、原市之進・梅沢孫二郎など数名を借用していた。御三卿である一橋家には幕府からつけられた家老や家臣が多少いたものの、譜代の家臣がいなかったからだ。耕雲斎は水戸尊攘激派のリーダーとして有名であり、京都の尊攘急進派対策に欠かせないと思われていた。続いて13日に老中格小笠原長行、25日に公武合体派の前土佐藩主山内容堂、2月4日に政事総裁職松平春嶽が海路入京した。 また、京都守護職の会津藩主松平容保は慶喜に先立つ、12月24日に入京していた。(参照:「守護職通史」「容保の入京・参内」) ◆朝廷尊攘急進派の攻勢−公武合体派公卿の辞職将軍上洛を前に、尊攘急進派の攻勢も強まっていた。文久2年12月には国事御用掛が設置され、29名の公家が門閥・官位に関わらず任命されて国事を議論することになった(こちら)。御用掛には薩摩藩と姻戚関係にある近衛忠煕関白始め、中川宮(青連院宮)などの公武合体派も含まれたが、議論は長州藩・土佐藩急進派に後押しされた三条実美や姉小路公知の尊攘急進派公卿がリードした。 明けて1月9日、三条実美が議奏に就任し、17日には長州藩主毛利敬親が参議に推任された。朝廷が武家の叙任を幕府を通さず直接行うことは禁中法度によりじられていたが、朝廷は在京の後見職・慶喜にも相談せずに行った。 このような状況下、尊攘急進派浪士による脅迫もあって、近衛忠熙関白を始め公武合体派公卿が次々と辞職してしまった。忠煕の後任には、親長州の鷹司輔煕が就いた。薩摩藩を含む公武合体派有力諸侯の上京を前に、朝廷内の有力な公武合体派は中川宮一人となってしまった。 さらに2月13日には尊攘急進派公卿の要求で、国事を議論する場として新たに国事参政・寄人が設置され、三条実美・姉小路公知を始めとして、定員14名中13名に尊攘急進派が任命された(こちら)。以後、朝政はこの参政・寄人が牛耳っていくことになった。次いで20日には参政・寄人の提案により、「草莽卑賤」の者でも学習院(公家の学問所)に来て時事について建白することが許された(こちら)。 朝議は尊攘急進派抜きに行われることは極めて困難になり、公武合体派連合計画は早々に頓挫してしまった。 関連■テーマ別文久3「天誅」と激派の伸張・公武合体派の後退(2)」 ■幕末長州藩「主要事件簿文久3年」 |
幕府/江戸 | 将軍:家茂 | 老中:板倉勝静 | 首席老中:水野忠精 |
幕府/京都 | 後見職:一橋慶喜 | 総裁職:松平春嶽 | 守護職:松平容保 |
老中格:小笠原長行 | 所司代:牧野忠恭 | ||
朝廷 | 天皇:孝明 | 関白:鷹司輔熙 内覧:近衛忠熙(前関白) |
国事扶助:青蓮院宮 |
朝議の尊攘急進派支配が拡大する一方で、後見職一橋慶喜は、入京後、朝野の尊攘急進派に攘夷期限決定を迫られていた。慶喜自身の回想によれば、尊攘急進派は幕府の重職や将軍の上洛により公武合体派が勢力をのばすのを恐れ、この際攘夷期限を設定させ、将軍が上洛したときには攘夷決行しかない状況にしようと企てたのだとされている。
◆攘夷期限回答の朝命2月9日、ついに姉小路公知ら尊攘急進派公卿12名は新関白鷹司輔熙邸に列参し、攘夷期限の確定を迫った。慶喜は春嶽・容保・容堂と相談した上で、「将軍が上洛を終えて帰府(=江戸に帰ること)すれば、攘夷拒絶の応接をすることになる」と関白に回答した(こちら)。しかし、翌10日には「将軍が上洛せずとも後見職・総裁職が在京しているのだから、両人で決めて内奏せよ」との沙汰が下った(こちら)。次いで、11日朝には長州藩士久坂玄瑞らが関白を訪ねて尊攘急進派公卿中山忠光(忠能の七子)発案の三策−(1)攘夷期限決定、(2)言路洞開(下から上に意見を具申する路を開くこと)、(3)人材登用−を建白し、「今日中に決定せよ」と迫った。さらに午後からは13名の急進派公卿が関白邸を訪ねてただちに久坂らの建白を天皇に報告せよと圧力を加えた。こうして三策は天皇に奏上され、騒ぎになることを怖れた天皇によって、御前会議で勅許された。朝廷は、(1)の攘夷期限決定について、ただちに三条実美らを勅使として慶喜の宿舎に派遣し、「期限を早々に答えるように」との命を下した。(三策の(2)言路洞開及び(3)人材登用に関しては、先に述べた国事参政・寄人の設置や学習院への草莽の建白につながっていった)。 ◆慶喜、攘夷期限を将軍帰府後20日(4月中旬)と約束慶喜は、宿舎に急遽、春嶽・容保・容堂を招いて勅使と応対した。今日中に回答を要求する三条ら勅使と押し問答の結果、明け方になって、とうてい実行不可能な攘夷期限(将軍滞京10日、帰府後20日)を上答した(こちら)。なお、このとき、春嶽は、あくまでも攘夷期限設定に反対し、<攘夷も拒絶もは既に奉承はしたが、至難の事で、天下の人心が一致し、公武一和でなくては実行不可能である。ところが、天下の人心はいうまでもなく、公武の間も真の一和に至らぬ今、攘夷期限を決めるのは軽率で、至難の上に至難を重ねるだけだ>と意見したが、慶喜らに押し切られてしまった。さらに、14日には関白に対し、攘夷期限を4月中旬と計算する書を提出した。 関連:■テーマ別文久3:「攘夷期限」■幕末長州藩「主要事件簿文久3年」 |
幕府の公武合体派連合策 天誅と幕府の浪士対策
(2001/6/14, 2001/6/15)
<主な参考文献>
『続再夢紀事』/『会津藩庁記録』・『会津松平家譜』・『七年史』・『京都守護職始末』/『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』/『官武通紀』/『大久保利通日記』/『開国と幕末政治』・『大久保利通』・『徳川慶喜増補版』 |
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