朝議の尊攘急進派支配が拡大する一方で、後見職一橋慶喜は、入京後、朝野の尊攘急進派に攘夷期限決定を迫られていた。慶喜自身の回想によれば、尊攘急進派は幕府の重職や将軍の上洛により公武合体派が勢力をのばすのを恐れ、この際攘夷期限を設定させ、将軍が上洛したときには攘夷決行しかない状況にしようと企てたのだとされている。
◆攘夷期限回答の朝命
2月9日、ついに姉小路公知ら尊攘急進派公卿12名は新関白鷹司輔熙邸に列参し、攘夷期限の確定を迫った。慶喜は春嶽・容保・容堂と相談した上で、「将軍が上洛を終えて帰府(=江戸に帰ること)すれば、攘夷拒絶の応接をすることになる」と関白に回答した(こちら)。しかし、翌10日には「将軍が上洛せずとも後見職・総裁職が在京しているのだから、両人で決めて内奏せよ」との沙汰が下った(こちら)。
次いで、11日朝には長州藩士久坂玄瑞らが関白を訪ねて尊攘急進派公卿中山忠光(忠能の七子)発案の三策−(1)攘夷期限決定、(2)言路洞開(下から上に意見を具申する路を開くこと)、(3)人材登用−を建白し、「今日中に決定せよ」と迫った。さらに午後からは13名の急進派公卿が関白邸を訪ねてただちに久坂らの建白を天皇に報告せよと圧力を加えた。こうして三策は天皇に奏上され、騒ぎになることを怖れた天皇によって、御前会議で勅許された。朝廷は、(1)の攘夷期限決定について、ただちに三条実美らを勅使として慶喜の宿舎に派遣し、「期限を早々に答えるように」との命を下した。(三策の(2)言路洞開及び(3)人材登用に関しては、先に述べた国事参政・寄人の設置や学習院への草莽の建白につながっていった)。
◆慶喜、攘夷期限を将軍帰府後20日(4月中旬)と約束
慶喜は、宿舎に急遽、春嶽・容保・容堂を招いて勅使と応対した。今日中に回答を要求する三条ら勅使と押し問答の結果、明け方になって、とうてい実行不可能な攘夷期限(将軍滞京10日、帰府後20日)を上答した(こちら)。なお、このとき、春嶽は、あくまでも攘夷期限設定に反対し、<攘夷も拒絶もは既に奉承はしたが、至難の事で、天下の人心が一致し、公武一和でなくては実行不可能である。ところが、天下の人心はいうまでもなく、公武の間も真の一和に至らぬ今、攘夷期限を決めるのは軽率で、至難の上に至難を重ねるだけだ>と意見したが、慶喜らに押し切られてしまった。
さらに、14日には関白に対し、攘夷期限を4月中旬と計算する書を提出した。
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