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元治2年2月14日(1865.3.11)
【京】薩摩藩士吉井幸輔、在京の人から聞いた京都の近情を中岡慎太郎に話す
(老中の率兵上京とその目的、幕府による長州藩主父子・五卿の江戸送致方針)。

☆京都のお天気: 晴 (中岡慎太郎の日記)※朝、鶯が鳴いていたようです。

>老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上京
●吉井幸輔が得た情報
【京】元治2年2月14日(3.11)、薩摩藩士吉井幸輔は、ともに上京した五卿随従の土佐浪士中岡慎太郎に、在京の人から聞いてきた京都の近情(老中の率兵上京とその目的、幕府による長州藩主父子・五卿の江戸送致の方針、幕府による贈賄の噂)を伝えました。中岡は、「幕の愚賊たるや殆ど甚し」と日記に記しました。

(中岡慎太郎の日記の2月14日条のてきとう書き下し)
十四日 晴 朝起き始めて鶯声を聞く。是より連日鳴かざるはなし。吉井、在京の人より近情を聞き、来りて曰く、過日、関東より閣老両名、阿部豊後守、松平伯耆守上京、伯耆守は歩兵隊三千を引率し来る由。其の含みの大意は、幕威を張り、恐れ多くも朝廷を要し奉らんかため、尾老公、一橋公、会候を関東に下し(幕の愚賊たる殆んど甚し。橋会も亦去らしめんとするか。何等の主意ぞや)、諸藩の兵を国々に返し、伯州は歩兵を以て暫く朝廷を守護し奉り、遂に安対(=安藤対馬守)及び酒井若州(=酒井若狭守)等を以て先年の如くせしめ、且つ諸侯参勤を復古し、妻子の国々に返ししを復古せんとす。且つまた、毛利候父子を関東に引出し、五卿方は五藩より関東に出し候様致さん為め、大監察等既に発せり。尾老公の兵を大坂に止めしむ等の事を聞く。此日、吉井内府公拝謁。
・・・正三公頗る純議。幕三十万両金持来る。已に賄の入りし所ありと聞く。未審。

(吉井・中岡・土方楠左衛門、上京の経緯)
1月28日、薩摩藩士大久保一蔵(利通)・吉井幸輔・税所長蔵(篤)は、藩命で上京の途中、博多に立ち寄りました。すると、中岡がやってきて、筑前藩による五卿待遇方針の改善を訴えました。大久保は要請を受けて、筑前藩世子を訪ね、さらに吉井とともに久留米でも周旋すると、2月2日、吉井を残して、税所とともに博多港を発ちました。(大久保は7日に着京)

一方、大久保らが蒸気船で上京することを聞きつけた三条実美は、土方・中岡、彼らと同行して上京するよう命じました。大久保・税所が既に出港していたため、両人は、残っていた吉井と同行することになりました。三人は、2月5日に赤間を発ち、7日に下関に到着し、8日には豪商白石正一郎方で、長州藩士赤根武人らと会して「薩長和解を謀り」(こちら)、9日に出港。13日に入京していました(土方・中岡は二本松薩摩藩邸に滞在)。

<ヒロ>
幕府による一橋慶喜・松平容保の連れ戻し計画が、五卿随従の中岡にも「愚」かだと映っていたのは面白いですよね。(中岡が、「一橋」「会津」と書いているのは意外でした)

なお、中岡・土方の上京目的ですが、平尾道雄によれば、「京都には公卿にも諸藩の有志にも勤王家がいるので、その人々とまじわって、十分に京師の事情をとりしらべる」ことであるが、表面は「五卿の親族故旧に消息を通じたい口実で、三条卿から吉井幸輔に依頼」したのだそうです。

参考:「海西雑記」『史籍雑纂』五p428、『回天実記』(幕末維新史料叢書7) p148-149、『中岡慎太郎 陸援隊始末記』p136(2019/3/19)
関連: ■テーマ別元治2本庄・阿部老中の率兵上京

【長州】椋梨藤太・同中井栄次郎・同小倉半左衛門等12人萩を脱して石見に走る。

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