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☆京都のお天気: 晴 (朝彦親王日記) >将軍上洛/上坂問題 ■容保の東下運動 【京】元治2年2月13日(3.10)、孝明天皇は、二条関白を通して、会津藩主松平容保に対し、将軍上洛という東下の目的の成就及び病中旅行の安全を祈願させた御符を下賜しました。 <ヒロ> 勅命により、内侍所と「吉田社」(孝明天皇の勅願所だったという吉田山の宗忠神社?)で祈祷させたそうです。 参考:『京都守護職始末』2p113、150、『七年史』三p20-21(2019/3/3) 関連:■テーマ別元治2 容保の東下運動 >老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上京 【京】元治2年2月13日(3.10)、中川宮は、桑名藩士筑摩市左衛門から、藩主松平定敬(所司代)が、両老中に呼び出され、将軍の「上京上坂御断」を所司代の代返で申し入れるよう言われたが、朝廷への取次指示をきっぱり断ったと聞きました。 <ヒロ> 2月10日頃のことだったようです(こちら)。でも、幕府からみれば、やはり、「京都方」が一致団結しているようにもみえるようで・・・↓。 参考:『朝彦親王日記』一p160(2019/3/3) 関連:■テーマ別元治2本庄・阿部老中の率兵上京 >江戸の幕府首脳VS会津藩 元治2年2月13日(3.10)、幕府は、禁裏守衛総督及び守護職在勤手当の月一万両の給付を停止しました。(京都で達した日なのか江戸で決定した日付なのか不明)。 <ヒロ> 幕府は、前年9月(禁門の変後)、守護職在勤中に毎月金一万両、米二千俵を給付すると達していました(こちら)。わずか5カ月で停止になった理由を、『七年史』では、幕府が、容保が将軍上洛催促のために朝廷に東下を願い出たのは、「一橋中納言・松平越中守等と相結んで、皆朝廷に心を傾け、幕府を掣肘するなり」との疑ったからだとしています。(『京都守護職始末』でも、給付停止は、幕府の有司が、総督・守護職・所司代らは、心をもっぱら朝廷のためにのみ傾けて幕府の不利を顧みないとの猜疑心を抱いからだと、似たようなことを記しています)。 参考:『京都守護職始末』2p113、150、『七年史』三p20-21(2019/3/3) 関連:■テーマ別元治1一会桑VS幕府 【京】薩摩藩士吉井幸輔、五卿随従の土佐脱藩・中岡慎太郎・土方久元と着京。二本松の薩摩藩邸に入る。 ※一回り目でどのくらい追いかけるか考え中・・・。 |
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