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元治2年2月8日(1865.3.5)
【京】老中阿部正外、容保を訪ね、速に東下・滞府の上の将軍輔佐を促す。
【京】六条有容、中川宮に、大原重徳の主張に二条関白が困っていると知らせ、
「強キ計カ御為トモ不存」と述べる
【下関】赤根(赤祢)武人・吉井幸輔・中岡慎太郎・土方久元ら、薩長和解を謀る

☆京都のお天気: 晴 (朝彦親王日記)

>老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上京
■容保の東下運動
【京】元治2年2月8日(3.5)?、前7日に率兵上京した老中阿部正外は、京都守護職松平容保を訪ね、速に東下すべきだが、将軍上洛の見込みはないので、滞府して将軍を輔佐するよう促したそうです。

容保は、阿部老中に、諸侯召集の動きを説明し、東下に同行して将軍上洛周旋に力添えをするよう求めたところ、阿部は、同意し、「少々御用」があるので、容保の出立後に京都を引き取ると回答したそうです

(二人のやりとり@「政変録事」のてきとう訳)
阿部老中 大樹公が頻りに(容保を)「御依頼」になられるところ、幸い、近日、そこもと様も東下を思い立たれたとの由。急速に御出立されてしかるべきである。もっとも、思召しの通りの周旋は行われるはずもなく、何分、大樹公の御補佐として江府へ御滞在になってしかるべきである。

容保
不束な私は、決して大樹公の御依頼にふさわしいはずもなく、もちろん、大政の御補佐など申上げるわけにもない。しかしながら、近年、京都守護職を仰せ付けられ、年来相勤める間、眼目の公武御合体の義を苦心・尽力仕りたいとの心底である。・・・昨夏、(朝廷が)御大政を大樹公へ御委任になったが、(鎖港の朝旨を?)御遵奉にも至らず、大樹は再三の御上洛(の朝旨を)御請けもないので、(朝廷が)追々諸藩を召される様子もみえる。いよいよここで諸藩を召されては「徳川家御浮沈」に至るのは目に見えている。そのような次第になり行くのを、「守護職之任ニ而在京罷在何之面目公武之間ニ相立可申哉」。これより、今回、(将軍上洛周旋のための東下を)存じ立てたのである。関東での尽力には一命を投げうつ心得である。ついては、そこもと方も、(老中という)御役柄といい、徳川の天下を御大切に思し召す事であれば、「私存込之処」へ力添えがあるべきところ、行き届かずなど御見切りになるのは忠義が行き届いているとも申しがたい。
阿部老中 いかにも御情実もっとも至極。この上は、御同様に尽力いたし、幾重にも御委任の廉が立ち、御遵奉が行き届くよう仕りたい。いずれ御同道・東下つかまつるつもりだが、私は、別段、少々御用もあり、(容保の)御出立後、早々に引き取ることになろう。

<ヒロ>
この「少々御用」には、慶喜や容保を更迭して、自分たちが京都に残って仕切ることも含まれているので、容保の出立後早々に引き取るというのが、どこまで本気の回答だったのかわからないですよね。

ネタ元の「政変録事」は、大日本維新史料稿本(綱要DB)に門脇重雄の所蔵とあるので、その父親である備前藩士門脇重綾(当時京都周旋方)の記録がベースなんじゃないかと思いますが、日記なのか、後にまとめたものなのか、勉強不足ではっきりしないです。でも、まるでその場にいたかのように二人のやりとりが記されていますよね。情報源は老中か会津藩か、どっちなんでしょう??(会津藩と親長州な備前藩はあまり親密なイメージがないです・・・)

参考:「政変録事」(綱要DB 2月8日条No9)(2019/2/10)

■中川宮の動き
【京】元治2年2月8日(3.5)、議奏六条有容は、中川宮へ書を遣わし、大原(重徳)が、何か申し立てることがあって昨日も参内したので二条関白が困っていると知らせ、「何分強キ計カ御為トモ不存」と述べました。

<ヒロ>
中川宮は、2月5日、老中への対応を穏やかするよう、二条関白に六条有容を通して申し入れており(こちら)、二条関白も承知していました(こちら)。二条関白は、2月6日、中川宮に「差向紛天ノ形勢、所々ノ説、下官一人ニ而困」っているとこぼしていましたが(こちら)、大原重徳もその中に含まれていたかもですね。

大原重徳が(しげとみ)、幕府への強硬な対応を関白に申し入れたということかと思います。同じく強硬派の正親町三条実愛をちょくちょく訪ねていますし。ちなみに、大原は、文久2年に慶喜・春嶽登用の沙汰をつげる勅使として島津久光と東下した公卿で、「激烈老」というあだ名もあるくらいなので(こちら)、今回も相当な勢いだったんじゃないでしょうか。

【京】元治2年2月8日(3.5)、征長副将・越前藩主松平茂昭は、藩士毛受鹿之助を中川宮に遣わして、帰国の暇を内願させました。

中川宮は、上京した老中が「苛酷之挙動」を理由に、暫く滞京するよう諭しました。


この際、中川宮は、両老中について次のように語ったそうです。
伯耆守・豊後守が上京したのは「専ら幕威を京師に振」るわんとするためらしいが、そうだからか、今度上京したのは公儀より禁廷への御使いで、尋常の上京ではないと称しているという。また、入京後、伝奏が、彼らの旅館を訪問せぬのを咎めて、老中の上京を知りながら大樹公の安否を伺われぬのは如何と詰ったという。

参考:『越前藩幕末維新公用日記』p178-179(2019/2/12)
関連:■テーマ別元治2 本庄・阿部老中の率兵上京
>天狗党処分
【京】元治2年2月8日(3.5)、中川宮は、越前藩士毛鹿受之助に、敦賀での水戸浪士斬首が「苛酷」だと話したそうです。

参考:『朝彦親王日記』一p148、150、『越前藩幕末維新公用日記』p179(2019/2/10)
関連:■テーマ別元治2 天狗党処分と幕府への批判
>薩長連合運動
【下関】元治2年2月8日(3.5)、薩摩藩士吉井幸輔及び五卿随従の土佐浪士中岡慎太郎・土方久元は、上京途上、豪商白石正一郎方で、長州藩士赤根(赤祢)武人らと会合し、「薩長和解」について謀りました。

(土方久元の日記の2月8日条のてきとう読み下し)
同八日 長府直目付井上少輔、報国隊原田順次より面会致したき旨申し来る。日出頃より出かけ、長府役所に行き、夫より船にて白石正一郎方に立ち越し、井上・原田並びに赤根武人・三好内蔵助・吉井幸輔・大山彦太郎(=中岡慎太郎)・大庭伝七等と薩長和解を謀り、懇談時を移す。・・・

(経緯)
1月28日、薩摩藩士大久保一蔵(利通)・吉井幸輔・税所長蔵(篤)は、藩命で上京の途中、博多に立ち寄りました。すると、中岡がやってきて、筑前藩による五卿待遇方針の改善を訴えました。大久保らは要請を受けて、筑前藩世子を訪ね、久留米でも周旋しました。2月2日、大久保は税所とともに博多港を発ち、吉井は状況を見守るために残りました。

一方、大久保らが蒸気船で上京することを聞きつけた三条実美は、土方久元・中岡慎太郎に、彼らと同行して上京するよう命じましたが、大久保・税所が既に出港していたため、両人は、吉井と同行することになりました。三人は、2月5日に赤間を発ち、7日に下関に到着していました。

参考:『回天実記』(幕末維新史料叢書7)p148-149、「海西雑記」『史籍雑纂』五p428、『玉里島津家史料』三p69-70 (2019/3/10)

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