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文久3年2月1日(3.19)
【京】千種文家臣賀川肇「天誅」事件2
【京】浪士対策:松平容保、一橋慶喜に再び言路洞開を説く/朝廷、諸藩に浪士取締の沙汰。

■「天誅」(テロ)
【京】文久3年2月1日、去る1月28日に殺害された賀川肇の右手が千種家に、左手が岩倉家に脅迫状とともに投じられ、その首は将軍後見職一橋慶喜の宿である東本願寺の太鼓楼上に「一橋殿に献ずる」という封書とともに置かれました

岩倉・千種家への封書の大意は<肇はともに奸謀をめぐらした仲なのでなつかしいと思い手を進上する。少将、藤式部(今城重子と堀川紀子。ともに和宮降嫁に尽力したとして岩倉・千種らとともに「四奸二嬪」として憎まれていた)の女官が復職するとの話があるが、そういうことになればきっと同じ目にあわせるので二人に告げるように>というもので、

東本願寺の方の封書は老中格小笠原長行・大目付岡部長常・沢勘七郎宛になっており、その大意は、<攘夷を奉勅したのにいまだそれが成らないのは本気でないからで、開国通商を欲しているのである。朝命を蔑しろにするならば罪は重く、天下の有志は黙っていない。すみやかに破約攘夷の期限を決め、天下の疑惑を解くように。この首は粗末だが攘夷の血祭りとして献上する。各々方より一橋殿へ披露されたい>というものでした。

慶喜の旅宿は大騒ぎとなりましたが、水戸藩から借りてきた武田耕雲斎が慶喜に急遽謁し、「首級を献ずるも可なり、願くは賢慮を労せらるうことなかれ」と言上し、さらに翌朝、清酒を献じ、「攘夷決定の時にあたり、生首を獲るは、是吉兆なり」と言ったそうで、館の人々は心を安んじたそうです・・・。

<ヒロ>
東本願寺の方の封書は、幕府(慶喜)の本心を言い当てていますが、慶喜の補佐役の武田耕雲斎の方は(やはりというか)バリバリの破約攘夷派で、幕府(慶喜)の約束した攘夷実行を信じて疑わない様子ですね^^;。こうして、慶喜は、激派によって陰に陽に攘夷期限決定を迫られるだけではなく、身内からもプレッシャーがかけられていたわけです・・・。

関連:■「今日」「1月28日(3.17):【京】千種有文の家臣賀川肇「天誅」事件1」■「開国開城」「天誅」と幕府/守護職の浪士対策
<参考>『徳川慶喜公伝』2『七年史』一(2001.3.20、2004.3.29)

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