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文久3(1863) |
<要約>
文久2年秋に端を発した尊攘急進派浪士による公武合体派への脅迫・暗殺(「天誅」)事件は、文久3年に入っても続いた。公武合体派公卿は萎縮し、脅迫に負けて朝政から身をひく者もあった。(A尊攘急進派浪士による脅迫・天誅) 入京した後見職一橋慶喜、総裁職松平春嶽、守護職松平容保らにとって、浪士対策は重要課題の一つだった。当初、幕府は守護職会津藩の浪士懐柔策(言路洞開)を容認したが、久坂玄瑞らの関白邸推参・脅迫事件を機に、浪士対策の勅諚を要請し、違反者は処罰することを決定した。勅諚が得られぬうちに、浪士が足利三代将軍の木像の首を取り、三条大橋に鳩首するという事件が起った。尊氏の首級を現将軍に擬し、足利幕府に借りて現幕府を非難したのである。 それまで懐柔策を主張していた容保は、ついに犯人の浪士逮捕に踏み切り、足利木像鳩首事件は守護職(幕府)による浪士取締(弾圧)の契機となった。(B幕府の浪士対策) |
幕府/江戸 | 将軍:家茂 | 老中:板倉勝静 | 首席老中:水野忠精 |
幕府/京都 | 後見職:一橋慶喜 | 総裁職:松平春嶽 | 守護職:松平容保 |
老中格:小笠原長行 | 所司代:牧野忠恭 | ||
朝廷 | 天皇:孝明 | 関白:近衛⇒鷹司輔熙 内覧:近衛忠熙 |
国事扶助:青蓮院宮 |
◆尊攘急進派浪士による公武合体派への脅迫/天誅文久2年秋に端を発した尊攘急進派浪士による脅迫・天誅事件は、文久3年に入っても、将軍に先発して入京した後見職一橋慶喜、守護職松平容保らを挑発するかのように続いた。浪士の陰には長州・土佐、及び彼らと結んだ朝廷内の尊攘急進派がいた。主な事件とその影響を時系列に列挙すると以下のようになる。
関連■テーマ別文久3「「天誅」と激派の伸張・公武合体派の後退(2)」 |
◆守護職の懐柔策vs慶喜・春嶽●言路洞開上京した幕府側勢力にとって、浪士対策は攘夷問題と並ぶ大きな課題だった。しかし、その方法論をめぐっては厳しい処分を主張する後見職の一橋慶喜と、言路洞開(下から上へのコミュニケーションの道を開く)を主張する京都守護職の松平容保が対立した。 在京幕府が浪士対策を定めることができない間に、尊攘過激派浪士による公武合体派公卿や大名への脅迫が相次いだ。脅迫が朝廷の重職に及んだことを重く見た朝廷は、2月1日、諸藩の重臣に対し、一連の騒動の対策として、藩内調査と言路洞開をはかるよう達した。ここにきて、容保は、再度、慶喜に言路洞開を建議し、今度は慶喜の同意を得たので、同月4日、近衛忠熙前関白(公武合体派)に言路洞開の建白書を提出した(こちら)。近衛前関白はこれを嘉納し、容保は、京都町奉行所を通じて言路洞開の町触れを布告させた。会津藩には浪士が往来し、のち天誅組総裁となった藤本鉄石なども容保と面談している。 ●攘夷先鋒策 次いで、容保は、4日に入京したばかりの政事総裁職松平春嶽に対して、浪士を攘夷先鋒として水戸藩武田耕雲斎に附属させ、自分の指揮下に置きたいと提案した(こちら)。しかし、元来開国派で、上京に臨んで公武合体派連合策を主唱した春嶽が、浪士を制するために外国と戦をするというような無謀な考えに賛同するわけもなかった。春嶽は、浪士の活動の裏には、国事御用掛が彼らを頼りにして、後ろ盾となっている事情があることから、先ず、朝議を固めることが重要だとして、10日、慶喜・容保らと諮ったうえで、鷹司関白に対して、朝廷が「有志」の浪士処遇を定めるよう促す建白書を提出した(こちら)。 ◆尊攘急進派の関白邸推参と浪士対策の硬化ところが、その翌日の2月11日、尊攘急進派の長州藩士久坂玄瑞・肥後藩士轟武兵衛や急進派公卿らが鷹司関白邸に押しかけて居座り、攘夷期限・人材登用(国事掛の人物精選)・言路洞開の三策を「今日中に決定せよ」と迫る事件が起こった(こちら)。この結果、攘夷期限が決定し、また13日には尊攘急進派中心の国事参政・寄人が朝廷に新設されるなど(こちら)、政局は急進派有利に動いたが、幕府の浪士対策は硬化した。まず、この件で、「浪士を鎮撫するは兵力にあらざれば成がたき」を痛感した容保は、藩兵三隊(約60名)を出して洛中を巡邏させることにした。法を犯すものは捕縛し、反抗するものは斬殺も可という方針である。続いて所司代も兵を出した。 さらに、同月14日に、慶喜・春嶽・容保・宗城が集まって、浪士処分を討議した結果、(1)脱藩者の帰藩、(2)主の無い者は幕府が扶助、(3)天皇の前で論決して勅諚を以て施行し、(4)違反者は厳罰に処する、との方針が定まった(こちら)。しかし、急進派の影響を受ける鷹司関白(こちら)は、16日、勅諚を出すことは浪士の攘夷の意思を挫く恐れがあって困難なので、慶喜に取り計らいを一任したいこと、それでよければ表向きは伝奏から達してもよい旨を回答した(こちら)。 一方で、朝廷は、容保に対して、不逞浪士取締り及び取締りを分担する藩の推挙を命じた(こちら)。次いで19日には守護職に学習院警戒を命じたが、これは、会津藩が強硬な態度に出れば、それを罪として守護職を罷免させようという、尊攘急進派の罠だったという(こちら)。20日には、急進派(参政・寄人)の建議により、学習院における「草莽」の建言を許され(こちら)、浪士らはますます勢いづいた。 ◆足利将軍木像梟首事件−会津藩と尊攘急進派の対立2月22日夜、何者かが京都等持院の足利三代将軍の木像の首を取り、三条大橋に梟首するという事件が起った。足利幕府に借りて現幕府を非難し、尊氏の首級を現将軍に擬したものだった(こちら)。 足利木像梟首事件には、実は会津藩士大庭恭平が関与していた。会津藩は大庭を浪士の間に潜伏させて事情を探らせていたが、この大庭が交わっていた浪士たちが足利木像梟首の犯人であり、大庭も計画〜実行まで参画していた。大庭から報告をきいた容保は、激怒し、それまでの寛容だった浪士対策を一転させた。同月26日、容保は、慶喜・春嶽の同意を得た上で浪士を一斉に捕縛した(こちら)足利木像梟首事件は、京都守護職の浪士「弾圧」の契機となった事件であり、以後、守護職会津藩と尊攘急進派浪士は対立を深めることになった。 一方で、会津藩は、「誠忠正義」で「真実尊攘」を志す浪士、「有志」の浪士については懐柔策を継続しており(こちら)、3月10日には、老中から在京の「尽忠報国」の志のある浪士の差配を命ぜられた(こちら)。 関連■テーマ別文久3「「天誅」と激派の伸張・公武合体派の後退(2)」 「浪士対策(言路洞開 浪士処遇(攘夷先鋒・幕府の扶助・取締)」 「足利将軍木像梟首事件」 |
(2001/6/7)
<主な参考文献>
『続再夢紀事』/『会津藩庁記録』・『会津松平家譜』・『七年史』・『京都守護職始末』/『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』/『官武通紀』/『大久保利通日記』/『開国と幕末政治』・『大久保利通』・『徳川慶喜増補版』 |
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