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文久3年1月29日(1863.3.18)
【京】浪士対策:国事御用掛、諸藩に浪士の攘夷先鋒を諮問。
【京】朝廷、青蓮院宮に還俗の内旨。
【京】政事総裁職松平春嶽、大坂到着
【江】生麦事件償金(1)米国公使、英国艦隊派遣を幕府に告げる

■浪士対策
【京】文久3年1月29日、国事御用掛は諸藩に浪士を攘夷先鋒することを諮問しました。

『維新史』によれば、河鰭公術(右近衛権少将)と勘解由小路資生(中務少将)は在京諸藩周旋方を学習院に招き、浪士から成る攘夷先鋒の一隊を編成することの可否を諮問しました。諮問の要点は(1)この浪士隊に攘夷先鋒の名目を与えさえすれば、たとえその統率者が幕府有司であっても、浪士は服従して忠勤に励むだろうか、(2)この隊に攘夷先鋒の文字を与えてもよいだろうか、ということでした。

統率者の人選については、<幕府の役人に総督を命ぜられても、叡慮をもって攘夷を仰せ出されたので、総督の者は遵奉の志のある人柄であれば、異議無く忠勤を務めるのではないでしょうか>という意見が多勢であり、さらに尾張藩士は<浪士の統括を一つに帰す御法があれば>と浪士統制の必要を説き、<なるべく、浪士をもって浪士を治め、「其生産を安し(生活を保障し?)、其死所を得さしめられ」ますように>と、浪士の統率者に浪士を充てられないかと提案しました。(「学習院建白留」)

浪士を攘夷の先鋒とすることについては、浪士がそのような名誉を帯びれば本懐であろうという意見もあり、一方で、津山藩士のように<今度の攘夷戦争は(江戸開府)300年来初めての軍事行動となるのに、「浮浪尽忠の者」に先鋒を命じては、正義を押したて、忠勇を励む各藩士は腰抜けとなるため、広い戦場の一部だけの先鋒を浪士に命じるべきでしょう>と、諸藩にも攘夷先鋒を命じた上で、その一端を浪士に任せるべき他という意見もありました。津山藩士は、さらに、浪士隊に攘夷先鋒の文字を与えることについては、<征夷大将軍というのは朝廷の重職であるから、この官爵を徳川家より剥奪しないうちは、攘夷のことは徳川家に命じてしかるべきです>と反対したそうです

<ヒロ>
江戸では、幕府が「尽忠報国」(=尊王攘夷)のために浪士を募集していましたが、ほぼ同時期、京都においても、攘夷先鋒のための浪士隊結成が議題にされていたのでした。この江戸と京都の同時進行的な動きは偶然なのでしょうか?

浪士隊結成を諸藩に諮問した国事掛は文久2年12月に朝廷に設置された国事審議機関です(こちら)。国事掛は、実質上は三条実美ら激派公卿に牛耳られていました。この日の諸藩への諮問の裏には、三条ら、そして三条らと結んだ長州などの在京尊攘激派の意向が働いていたと考えてさしつかえないのではと思います。彼ら激派は2日前の1月27日に翠紅館に集り、将軍上洛に関する対策について意見を交換したばかりでした。その中には将軍に先発して上京してくる浪士組の対策も含まれていたとことでしょう。集会参加に多く参加した水戸藩激派の住谷寅之助・山口徳之進らは、水戸に潜伏していた清河八郎と頻繁に会合しており、浪士組についても知悉していたはずですから、一同に、その目的が京都の浪士弾圧ではなく、「尽忠報国」であること(こちら)、いってみれば彼らの同志であることを、説明したのではないかと考えています(こちら)

そうであれば、浪士隊に攘夷先鋒を任せるというアイデアは、上京後の浪士組をにらんで、このときに出てきた(もっといえば、水戸激派がもちかけた)ものだとは考えられないでしょうか。つまり、激派には、幕府募集の浪士組を基盤に、在京の浪士も取り入れて先鋒隊を組織するという構想があったのではと思うのです。まったくゼロから攘夷先鋒のための浪士隊を公式に結成するのには、幕府の猜疑を生むことになり、困難が予想されますが、浪士組の拡大ならハードルはより低いでしょう。諮問内容に、浪士から成る攘夷先鋒の一隊を幕府に統率させるとあるのも、浪士組を意識しているように思えるのですが・・・。どうでしょう?

そして、興味深いことに、この日からまもない、2月6日には京都守護職の松平容保が、浪人を攘夷先鋒とし、水戸藩執政武田耕雲斎に指揮させようという提案を、政事総裁職松平春嶽に対して行います。(こちら)

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■総裁職の先発上京
【京文久3年1月29日、政事総裁職松平春嶽が海路大坂に到着し、中之島の蔵屋敷に入りました。

<ヒロ>
春嶽は同月22日、順動丸に乗って品川を出航していました。すでに京都では将軍上洛延期運動が蹉跌していました(こちら)。ブレーンだった横井小楠を「士道忘却事件」で欠いた上京となった春嶽にとって、前途は多難です。(小楠〜っ><)

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■生麦事件
【江】文久3年1月29日、米国公使は英国艦隊が近々に横浜に入港することを幕府に告げました。

老中板倉勝静・水野忠精ら4名は、連署して京都の後見職一橋慶喜に事情を報せ、対策を問いました。

関連:■テーマ別:「生麦事件償金問題」 ■開国開城:幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京
<参考>『維新史』・『続再夢紀事』一(2003.3.18、2004.3.20)

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