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■公武合体派排斥&「天誅」 【京】文久3年1月28日、公家千種有文の雑掌の賀川肇が尊攘急進派浪士に殺害されました。 屋敷に10数名の浪士が押し入り、賀川を探したがみあたらないので子どもを殺そうとし、みかねた賀川が飛びだしてついに殺害されたのだそうです。浪士は首と両手を斬り、壁に罪状を記しました。賀川は主家千種と所司代酒井忠義の用人のあいだを周旋、岩倉・千種ら公武合体派に協力したとして憎まれていました。(管理人は「天誅」はもともとキライですが、子供を思う親心を利用してまで殺そうというのは、ほんとうに大キライです><)。 浪士らは、2月1日には賀川の右手を千種家に、左手を岩倉家に脅迫状とともに投じ、首を将軍後見職一橋慶喜の宿である東本願寺の太鼓楼上に「一橋殿に献ずる」という封書とともに置きます・・・こちら 関連■開国開城:「「天誅」と幕府/守護職の浪士対策」■テーマ別「天誅と公武合体派排斥2」 ■守護職の将軍上洛要請 【京】文久3年1月28日、京都守護職松平容保は、将軍上洛を促すために、外島機兵衛・丹羽勘解由を江戸に派遣しました。当時、容保は風邪で伏せっていましたが、さらに、慶喜に直書を送り、適切な処置をとるよう求めました。 外島らにもたせた老中宛の書簡は以下の通り。
関連:■テーマ別:「容保の上洛遅延」「将軍上洛下準備:京都武力制圧VS幕薩連合の京都会議」「薩摩藩の将軍上洛延期運動」■守護職日誌文久3 |
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