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文久3年1月28日(1863.3.17)
【京】千種有文の家臣賀川肇「天誅」事件
【京】守護職松平容保、将軍上洛を促す使者を江戸に送る。

■公武合体派排斥&「天誅」
【京】文久3年1月28日、公家千種有文の雑掌の賀川肇が尊攘急進派浪士に殺害されました

屋敷に10数名の浪士が押し入り、賀川を探したがみあたらないので子どもを殺そうとし、みかねた賀川が飛びだしてついに殺害されたのだそうです。浪士は首と両手を斬り、壁に罪状を記しました。賀川は主家千種と所司代酒井忠義の用人のあいだを周旋、岩倉・千種ら公武合体派に協力したとして憎まれていました。(管理人は「天誅」はもともとキライですが、子供を思う親心を利用してまで殺そうというのは、ほんとうに大キライです><)。

浪士らは、2月1日には賀川の右手を千種家に、左手を岩倉家に脅迫状とともに投じ、首を将軍後見職一橋慶喜の宿である東本願寺の太鼓楼上に「一橋殿に献ずる」という封書とともに置きます・・・こちら

関連■開国開城:「「天誅」と幕府/守護職の浪士対策」■テーマ別「天誅と公武合体派排斥2

■守護職の将軍上洛要請
【京】文久3年1月28日、京都守護職松平容保は、将軍上洛を促すために、外島機兵衛・丹羽勘解由を江戸に派遣しました。当時、容保は風邪で伏せっていましたが、さらに、慶喜に直書を送り、適切な処置をとるよう求めました。

外島らにもたせた老中宛の書簡は以下の通り。

「当表へ着後、追々親しく見聞仕り候えども、其の御地にて考え候とは違い、種々意味合いも之有り、一々書き取り兼ね候えども、先ず以て只今迄の處は、程なく御上洛にも相成り、随って攘夷の御処置もあらせらるべき御儀、其の間少々の疑念も之有り様子に御座候えども、一同手を握り相伺い候形勢に之有り候處、御上洛御発途の議、追々御延日に相成り、御日取りの義、来月十六日と仰せ出され候えども、近頃の巷説には、専ら御上洛これ有るまじきやなど申し触れ、人心淘々、疑惑を生じ候勢いに御座候。

私儀、当職仰せつけられ候義、畢竟御尊奉の義を始め、公武御一和遊ばされ、人心居り合いに帰り候思召し故、天朝に対され、信義御失い遊ばされざる様、きっと申上げ置き、其の後愚存も建白仕り(=文久2年9月17日の三港外閉鎖等破約攘夷の建白)、既に発足前日(=12月18日)は、来春早々御上洛、御直衛も遊さるべしとまで仰せ聞かされ候に付き(こちら)、関白殿下を始め、伝奏議奏衆へ罷り出候毎度、程なく御上洛の趣申上げ、日夜待ち奉り、且つ又攘夷の義も勅諚御請け遊ばされ(12月15日こちら)、策略の義、評議中にも之あるべく候えども、万一御上洛御沙汰止めにも相成り候えば、攘夷の義も自然御日延べにも相成り、此の機会甚だ御大切に付き、一日を争い候位の義に候處、実に右さま相成り候ては、部下一統、疑惑を懐き、今にも如何なる暴発の徒、之あるまじきやも計り難く、之より、少しも早く御上洛遊ばされ、夷人拒絶の御策略を施行も遊ばれず候ては、上は天朝に対し奉り、下は万民に対せられ、御信義あらせられざる御場合にも相至り、御家の安危、天下治乱、此の度御上洛の御一挙に御座候やと存じ奉り候間、各様方迄、御賢察委細仰せ上げられ、御取計い下されたく、懇願奉り候」(仮書き下しby管理人)

関連:■テーマ別:「容保の上洛遅延」「将軍上洛下準備:京都武力制圧VS幕薩連合の京都会議薩摩藩の将軍上洛延期運動」■守護職日誌文久3
<参考>『徳川慶喜公伝』2・『七年史』(2001.3.17、2004.3.20)

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