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泉涌寺塔頭戒光寺
-御陵衛士の墓所-


<場所:東山区泉涌寺山内町。京阪下車>

泉涌寺は天皇家の菩提所で、孝明天皇の御陵も山内にあります。新選組に殺害されたり戊辰戦争で死亡した御陵衛士の墓所は、この泉涌寺の総門前の戒光寺(泉涌寺塔頭)墓地にあります。彼らは死後もなお 衛士として孝明天皇の御陵をまもりつづけているのです・・・。

泉涌寺総門   

左: 孝明天皇の御陵のある泉涌寺総門。総門の手前左に戒光寺墓所がある
右:泉涌寺塔頭戒光寺(写真は門があいているものに近々に取り替えます)

戒光寺墓所全景

戒光寺御陵衛士墓所
正面左から毛内・伊東・藤堂・服部の墓碑。
石香炉・手水場は明治2年の墓碑建設時に
毛内監物の出身・弘前藩から供えられたもの)


2010年4月、戒光寺さんが御陵衛士墓所の一般墓参を条件つきで再開されました。詳細はお寺のHPから。なお、2007年6月に一般墓参禁止になった際にご住職からお預かりしたメッセージはこちら。また、2010年3月に墓所の周りに設置された垣根の関連記事が管理人ブログにあります(こちら)。

御陵衛士墓所は、慶応4(1868)2月、朝廷の沙汰によって、代々の天皇の御陵をお守りする泉涌寺の塔頭で、衛士たちとのゆかりも深い戒光寺につくられた。

■戒光寺詳しく
泉涌寺の塔頭戒光寺は、鎌倉時代の安貞2年(1228)、後堀河天皇の勅願所として猪熊八条に創建された由緒ある寺である。ご本尊の「丈六釈迦如来」の首の辺りから何か流れている様に見えるのは、血の跡で、江戸時代初期の後水尾天皇が即位争いに巻き込まれ暗殺者に襲われたときに、身代わりに立ったのだという。正保2年(1645)、その後水尾天皇の発願により皇室の菩提寺である泉涌寺の山内に移された。(朝廷のためには一命を捨てる覚悟だった伊東らも、特別な思いをもってご本尊を拝観したのではないでしょうか^^)。

■幕末の戒光寺
幕末の戒光寺住職・湛然は泉涌寺の長老(泉涌寺前管長)という立場の泉山の実力者であり、清華家である西園寺家の猶子であることから、朝廷との個人的つながりもある人物だった。文久4年(1865)2月に将軍徳川家茂が御陵の参拝に来山した時には、当代管長や前管長の2長老と共に御目見えを許され、慶応2(1866)末に亡くなった孝明天皇の入棺の儀では、導師尋玄長老の助法を担当し、大葬の儀では尊湯を務め、三十七日法要には引導を務めている。また、戒光寺は、家茂来山時には高家衆と山陵奉行戸田忠至の宿坊を、孝明天皇の大葬時には将軍徳川慶喜の休み所を割り当てられている。なお、現在と違い、当時の戒光寺の敷地は泉涌寺総門まで続いていた。

■湛然長老と衛士の深い関わり
御陵衛士は、常陸志筑出身の伊東甲子太郎を盟主として結束した総勢10数名の「同志」・「友」からなる幕末の政治集団である。彼らは、最初、「尽忠報国」を標榜する新選組に属した人びとであり、「尊王」「攘夷」では一致していたが、次第に思想信条の違いが明らかになり、慶応2年末の新選組隊士の幕臣取立て内定を機に分離を決意した。湛然長老はかねてから彼らと懇意にしており、その勤王の志に感じていたという。その湛然の助力で、慶応33月、彼らは朝廷から孝明天皇の御陵衛士を拝命し、新選組と袂をわかった。衛士の一人である毛内監物はかねがね、戒光寺院代に「衛士を勤めているので、万一のことがあれば泉涌寺に葬ってほしい」と話していたといい、衛士拝命が新選組分離のための単なる方便ではなかったことがうかがえる。御陵衛士は、一和同心・国内皆兵・大開国大強国(開国攘夷)等を掲げ、公議・衆議を基本とする公卿中心の政権構想実現を目指して奔走した(討幕ではない)。しかし、大政奉還直前の11月18日に伊東が新選組に謀殺され、翼19日未明に遺体を引き取りにきた同志は待ち伏せの新選組に襲撃されて、うち藤堂・毛内・服部の3名が闘死し、重囲を斬り抜けた衛士は散り散りになってしまった(油小路事件)。この時、湛然は、土佐藩邸に庇護を断られて行き場をなくした衛士の阿部十郎と内海次郎を一夜匿った。また、衛士残党をおびきよせるための囮として放置されたままの伊東ら4名の遺体引取りを新選組と交渉している。新選組から逃れた生き残りの同志たちは、再び政治活動を展開することはなく、兵力として新政府軍側に取り込まれていった。その多くは、鳥羽伏見戦争を経て、前侍従・綾小路俊実に助力を乞われて赤報隊結成に参加し、二番組(君側)幹部となった。

■衛士や同志たちが戒光寺に葬られた経緯
油小路事件で亡くなった4名の遺体は、最初、新選組隊士の菩提寺である壬生の光縁寺に仮葬されたが、王政復古後の慶応4年(1868)213日、朝廷の沙汰によって、戒光寺に改葬された。旧年中に改葬されるはずだったが、新選組に障りがあり、やむをえず延期になっていたという。その費用は新政府参与大原重篤(綾小路俊実の父)の役所から出されたという。改葬の際は4人の傷を改め、武装束に着替えさせたが、仮葬から既に80日余も過ぎていたにも関わらず、遺骸はたった今討ち死にしたように見え、人々は「勇者の一念はこのようであるべきだ」と語り合ったと伝わる。葬儀は大名にも珍しいほど盛大で、雨天の中、赤報隊に参加していた旧衛士ら7名は騎乗、その他150人ばかりが野辺送りをした。時節柄多忙であるからか墓碑はすぐには建立できないが、その分、引導は特別に手厚く、百か日(2月28日)にも別途供養するようにとの指示が下った。「死に冥加と申すはこのことか」といわれたという。

■生き残りの衛士による墓碑の建立
翌明治2(1869)11月、油小路で亡くなった4名の墓碑の他、戊辰戦争で戦死した旧衛士富山四郎(弥兵衛)・竹中直枝(清原清)、同年9月に京都で殺害された旧衛士佐原太郎、慶応36月に新選組分離を請願しに赴いた会津藩邸で横死した同志の茨木司・佐野七五三助・中村五郎・富川十郎の合計7名の合祀墓の墓碑、及び旧衛士新井忠雄の戊辰戦争時の従者高村久蔵の墓碑が、旧衛士の鈴木三樹三郎、旗、新井、阿部、加納、内海によって建立された。また、弘前藩からは香炉・手水鉢が奉納された。建立は三周忌(明治2年11月18日)に間に合わせる予定だったが、墓石の仕上げが遅れ、1125日に招魂祭が執り行われた。墓地の周りの柵や泉涌寺道から墓地につながる小道が整備されたのもこのときである。

<墓碑建立の経緯>
明治2年春、弘前(津軽)藩士が弾正台京都支台大巡察の新井忠雄を訪ねてきした。用件は毛内らの墓碑建立であった。最初、弘前藩は毛内の墓碑建立のみを考えていたが、それでは故人も喜ばないだろうと、かつての同志に相談することになったという。新井は「毛内固人始め死生同盟の信義は父兄の情にも換え難き事」であり「建碑の一事は同志等え御委任下され」たいと回答したので、弘前藩は香炉・手水鉢を奉納することに決まった。その後、新井は篠原や弘前藩士、そして戒光寺と連絡を取り合いながら準備を進めていった。

【泉涌寺の長老システム】泉涌寺の管長は天皇の綸旨によって補任されるのが通例であり、管長は「長老」と呼ばれた。管長は任期制であり、引退した管長は出身の塔頭などに戻った。任期は江戸時代には6ヶ月以内(塔頭出身者の場合)と短く、泉山には同時期に複数の前管長が存在することになった。その結果、次第に、管長職は前管長が輪番でつとめる制度が確立し、前管長も「長老」と呼ばれるようになった。湛然もこのような長老の一人であった。

参考:「毛内青雲志録」(『新選組研究最前線下』)、『史談会速記録』、『泉涌寺史』


<慶応3年11月18日油小路事件で新選組と戦って横死した4名の墓碑(墓所正面)>

奥州弘前之人 武明没之日於同所戦死
毛内監物平良胤
年三十三


奥州津軽出身。代々の当主が「勤王有右衛門」と呼ばれる武家に生まれた。父は300石取りの用人で生母は執政の娘。養母は女流名士として有名な滝子。文久元年に脱藩し、江戸で学問教授をするうちに伊東と出会ったようだ。新選組入隊。文学師範。慶応33月の新選組を分離後は、兵庫開港勅許反対などの建白書を執筆した。同年11月、伊東暗殺の報を受け、遺体引取りのために同志7名(8名説あり)と七条油小路に急行し、待伏せの新選組数十名と激闘となった。学者肌だったが一歩もひかず、五体ばらばらにされるまで闘い、刀を握り締めたまま討死。一説に「各々、お引揚げ下さい、大切な命でござるぞ、後は拙者が拙者が……」と叫び続けていたという。享年33歳。戒名は「覚知院剱冷居士」。【同志列伝:毛内監物


伊東甲子太郎墓碑

常州志筑之人 慶応三卯丁年十月十八日於油小路戦死
誠斎 伊東甲子太郎武明
年三十二


常陸志筑藩郷目付鈴木専右衛門長男として誕生。文武に優れ、水戸学・国学を学び、歌道を嗜んだ。江戸深川伊東道場の後を継いで伊東姓を名乗る。元治元年、攘夷実行を促すために筑波に挙兵した天狗党への加勢を友人の忠告で断念。同年10月、門弟の藤堂平助の勧誘により、勤王と攘夷のために「尽忠報国」の浪士集団・新選組入隊希望者として上京。参謀・筆頭文学師範。諸方に出張して情報収集にあたり、志士の救解にも努めた。志を貫くため、慶応33月、「友」とも呼ぶ同志とともに、孝明天皇の御陵衛士として新選組を分離。一和同心・国内皆兵・大開国大強国(開国攘夷)を掲げ、公議・衆議を基本とする公卿中心の政権構想実現を目指したが、同年11月18日、近藤妾宅に呼び出された帰路、木津屋橋付近で新選組に暗殺された。遺体は同志をおびきよせるための囮として七条油小路の辻に放置された。懐中には上記構想を認めた建白書の写しがあったという。享年33歳。(享年32歳と墓碑にはありますが、伊東の実弟の三樹三郎家の古文書によれば、33歳)。【同志列伝:伊東甲子太郎

藤堂平助墓碑 東武之人 武明没之日於同所戦死
藤堂平助藤原宣虎
年二十四


武蔵江戸出身。津藩主藤堂和泉守落胤説がある。小柄だが文武両道だったという。伊東の寄弟子だったが、文久3年春、近藤勇らとともに浪士組に加わって上京。新選組創設に参加し、最年少幹部の一人となった。常に先陣をきって闘いに臨むことから「魁先生」と称された。元治元年6月の池田屋事件で額を割られて重傷を負う。その後、東下して伊東を新選組に勧誘。衛士の新選組分離当日には美濃出張中で後から合流。伊東の「左右の手」と呼ばれたという。美濃では侠客と組んで農兵を募集したというが、このことが近藤に衛士殲滅を決意させた一因になったともいう。油小路の闘いでは、最初に討死。油小路に同行した小者の目撃証言によると抜き合う間もなかったという。全身に大小多くの傷を負い、刀を握りしめたまま亡くなった。享年24歳。【同志列伝:藤堂平助

服部三郎兵衛墓碑 播州赤穂之人 武明没之日於同所戦死
服部三郎兵衛良章
年三十六

播州赤穂出身。一説に奸臣を斬って脱藩したという。江戸に至った服部は、文久3年正月までに篠原・加納・佐野ら後の同志と出会い、神奈川奉行所配下の外国人居留地警備についた。前後して伊東と出会い、兄弟のようにしたという。慶応311月、伊東が近藤の招きを受けた時には、その袖をとらえて諌止したという。伊東の遺体引取りに際して「甲冑の用意をするべきだ」と主張したが、「路上に甲冑をきた死体を晒せば後世の侮りをうける」との反対意見があり、衛士は平服で向かったという。油小路の闘いで、同志が闘死あるいは血路を切開いて逃走する中、服部はひとり踏みとどまって闘い続けた。剣の達人と伝わる服部は、二刀を使って激戦し、多数の敵に手傷を負わせたが、ついに刀が折れ、倒された。その衣服の下には鎖が着込まれ、懐中からは血染めの詩文稿がのぞいていたという。事件直後の現場を通りかかった桑名藩士が、後年、「服部氏の死状は最も物見事である。・・・其烈戦奮闘の非常なる一身を以って衆敵に抗し、以て同行の四人をして逃脱せしむるの暇を得せしめたることも又以て想うべき也」と述懐している。享年36歳。【同志列伝:服部三郎兵衛


<佐原太郎、会津藩邸で横死した4名、戊辰戦争で亡くなった2名の合計7名の合祀墓
(墓所向かって左手前)>

<墓碑正面>

佐原太郎



常州之人 慶応戊辰九月朔日於下寺町事死
佐原太郎平利秀
年三十六

常陸松川出身。慶応元年春の江戸での新選組隊士募集に応じて上京。同33月の伊東らの分離時には同行せず、6月の幕臣取立てでは見廻組並御雇格。その後脱走して合流。11月の油小路事件当日は清原・江田と伊勢に出張中で、迎えにきた富山から悲報を知らされて帰京。同志の潜伏する伏見の薩摩藩邸に入った。翌12月18日(月命日)、沖田総司襲撃のため、阿部・内海・江田と共に近藤妾宅に向かったが、不在のため未遂に終った。その後、加納・篠原・富山・三樹と合流し、伏見街道で馬上の近藤を待ち伏せて襲撃したが、富山が撃ったとされる最初の発砲で負傷した近藤はそのまま逃走してしまった。翌慶応41月の鳥羽伏見の戦では同志と共に薩摩軍の一員として戦い、その後、相楽総三らとともに結成した赤報隊結成に参加。しかし、戊辰戦争には出陣せずに京都に残留し、9月1日に死亡。元新選組隊士(元伊東道場塾頭)中西登に殺されたとも、副隊長を務めた新檄隊の田口次郎に殺されたともいう。享年24歳。

<右側面>

富山四郎
(富山弥兵衛)

竹川直枝
(清原清)

薩州人 戊辰之役四月二日於越後草生津戦死
富山四郎源豊国
年二十六


薩摩出身。元治元年末までに新選組に入隊。慶応3年3月には随従同志として分離(衛士雇人とも)。同年11月の油小路事件では新選組の重囲を突破し、三樹・加納とともに薩摩藩邸に身を投じた。翌12月の近藤襲撃に参加し、馬上の近藤を狙撃して肩に重傷を負わせたという。当時の銃の精度から当ると期待せず、発砲して相手が向かってくるのを迎え撃つつもりだったらしいが、近藤も護衛も逃走し、復仇は果たせなかった。鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩に属して戦い、負傷。赤報隊には参加せず、新政府軍に加わって出陣。越後出雲崎で水戸諸生党の残党に捕縛され、一度は脱出したが、追手により殺害・鳩首された。孤立無援でよく闘い、捨札には「薩州藩賊、後世諸士の亀鑑、大丈夫也」と書かれた。遺体は教念寺に埋葬されたのち、高田官軍墓地に改葬された。戒光寺墓地には遺物が埋められた。享年26歳。

肥後之人 同年四月五日於欧州白川戦死
竹中直枝源重春
年三十七


肥後熊本脱藩。慶応元年春の江戸での隊士募集に応じて上京。砲術師範。慶応33月の伊東らの分離には同行しなかったが、まもなく脱走して合流した。同年11月の油小路事件当日は佐原・江田と伊勢に出張中。富山から悲報を知らされて帰京し、伏見の薩摩藩邸に潜伏したが、再び同志募集のために江州に向かった。12月末に大久保利通らの依頼で加納とともに江戸探索に向かい、翌年2月に帰京したが、加納とともに関東に進軍する薩摩軍に加わることを命ぜられ、3月に江戸板橋宿に到着。4月、流山で投降した大久保大和と名乗る人物が同宿に連行されてきた。近藤らしいが確認してくれと依頼され、加納と共に近藤だと看破した。その後、宇都宮方面に出陣し、閏4月に白河口で戦死。遺体は白河に埋葬された。享年37歳。
<左側面>

茨木司

<背面>

佐野七五三助・富川十郎・中村五郎
慶應三丁卯六月四日下立売於会津邸・・ (・・・以下は墓石が欠落。かけらがみあたりません)
奥州之人 茨木司平昌業          
尾州之人 佐野七五三之助源忠正 

常州之人 富川十郎藤原良利
野州之人 中村五郎平義明


彼らは伊東の同志だったが、慶応33月に伊東らの分離には同行せず(同行できず)、残留した。同年6月の幕臣取立て時に「ニ君に使えることはできない」と反発し、その他6名の隊士とともに脱退をはかった。伊東は、訪ねてきた彼らに、穏便に脱退するために、一度は会津藩に直訴することを提案したが、不安になり、遠方に身を隠すことを勧めたという。取り合わずに出かけた茨木ら4名は会津藩邸で死亡。新選組に殺害されたとも、切腹したともいう(残りの6名は放逐された)。

○茨木司:陸奥中村出身。慶応元年春の江戸での隊士募集に応じて上京。文武に優れて近藤にも愛され、そのために分離を許されなかったという。

○佐野七五三助:尾州名古屋出身。文久3年1月までに篠原らと出会い、神奈川の外国人居留地警備についた。元治元年10月、伊東らと上京して新選組に加盟。殺害された(自刃した)後、部屋に入ってきた新選組隊士に斬りつけて負傷させ、別の隊士達に止めをさされたという。死んだふりをしていたのか、死にきれなかったのか。辞世は「ニ張の弓引ましと武士のただ一筋に思い切る刀」と伝わる。享年32歳。

○富川十郎:甲斐あるいは常陸出身。慶応元年春の江戸での隊士募集に応じて上京。享年24歳。

○中村五郎:宇都宮出身。慶応元年春の江戸での隊士募集に応じて上京。享年19歳。



<新井忠雄の戊辰戦争時従者・高村久蔵の墓(墓所向かって左奥)>
高村久蔵 新井忠雄の従者として戊辰戦争に従軍。明治元年911日、庄内藩との戦闘中に関川で重傷を負い、翌10月8日に越後新潟官軍病院で死亡。遺体は新潟招魂場に祭神として埋葬され、戒光寺墓地には遺髪が埋められた。享年38歳。

最終更新日:2000.5.29, 2004.7.20, 2010.3.27


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