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文久2年4月6日(1862年5月1日) 
上京途中の島津久光、姫路着。
西郷隆盛の捕縛を命じる。

■島津久光の率兵上京
文久2年4月6日、率兵上京途中の薩摩藩国父島津久光が姫路に到着し、下関で久光を待てという命令を無視して大坂に向った西郷隆盛の捕縛を命じました。

<ヒロ>
島津久光は、武力と朝廷の権威を背景に幕政改革を断行し、公武一和を推進するため、3月16日に鹿児島を発ち、京都を目指して東上中でした。

大名ではなく無位無官である久光が、武力を背景に幕政改革を迫るということは、前代未聞であり、藩内にも反対がありました。また、薩摩藩尊攘グループである精忠組の激派には、久光の上京を機に討幕挙兵を謀ろうという動きがあり、諸国の同志と連絡をとっていました。「久光らが、この状態で計画を強行すれば不測の事態を招く恐れ」があり、「藩内人心調和のために」(『大久保利通』)、大島に遠島になっていた西郷隆盛を帰還させる必要が生じたそうです。

文久2年2月、(大久保利通の尽力で)西郷は鹿児島に帰還しました。大久保は西郷に東上計画への協力を求めましたが、西郷は計画に反対し、延期を主張しました。久光との仲は険悪になりましたが、大久保のとりなしで、久光は、西郷を先発させて九州の情勢を観察させ、下関で久光を待たせることになりまた。ところが、下関に到着した西郷は、久光の到着を待たず、討幕挙兵を目指す浪士平野國臣らとともに大坂に向ってしまいました。大坂に集まっていた尊攘激派はみな、西郷の先乗りを挙兵の先鋒だと思ったそうですが、実は、西郷は「長藩が薩藩に対抗して、新活動を計画せる最中なりければ、自ら志士の群に投じて之を指揮し、長州と志士との連合を断ちて、和泉の上洛を自由ならしめんの考」(『徳川慶喜公伝』)だったといいます。この日、西郷が浪士と行動をともにしていると報告を受けた久光は、西郷が挙兵に加担しているとして、逮捕・薩摩送還を命じました。西郷は再び遠島(徳の島、ついで沖永良部島)になります。

参考:『徳川慶喜公伝』2・『西郷隆盛』(岩波新書)・『大久保利通』(中公新書)・『島津久光の明治維新』(2003.5.6) 
関連:■テーマ別文久2「久光上京と寺田屋事件」■「開国開城」「文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上洛と寺田屋事件」■薩摩藩かけあし事件簿

*この時期の薩摩藩関連の「今日」は力不足のため、一般書を主に参考にしており、史料の検証まで手が及んでいません。「今日」が一回りしたら、『鹿児島県史料』等を参考に追加修正する予定ですm(..)m

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