5月の幕末京都 幕末日誌文久2 テーマ別文久2 HP内検索 HPトップ
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■久光上京と寺田屋事件 【京】文久2年4月8日、浪士平野國臣(次郎)は、率兵上京中の薩摩藩国父島津久光に期待する討幕三策(回天三策)を、曇華院の家司に提出し、朝廷に上げることを依頼しました。
島津久光は、3月16日に鹿児島を発ち、すでに兵庫まで近づいていました。約1000名を率いていたといいます。久光の目的は、武力と朝廷の権威を背景に幕政改革を断行し、公武一和を推進することでしたが、京坂に集まった激派は久光の上京は討幕のためだと信じており、久光への期待は高まっていました。 関連:■テーマ別「久光上京と寺田屋事件」■「開国開城」「文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上洛と寺田屋事件」 参考:『維新史』三・『徳川慶喜公伝』2(2003.5.6) ■土佐藩 【土】文久2年4月8日夜、土佐勤王党は藩の参政吉田東洋を暗殺しました。 吉田東洋は藩主に日本外史を進講した帰途でした。刺客は那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵でした。暗殺者三人は長州に逃れ、その後、久坂玄瑞を頼って京都の長州藩邸に潜伏しました。しかし、土佐藩の追及が及んできたので、久坂は薩摩藩の有村俊斎(海江田信義)と相談して、彼らを薩摩藩邸に移しました。その後、那須と安岡は文久3年8月の大和挙兵に参加して戦死。大石は薩摩藩士となって明治まで生き延びました。 関連:「土佐藩かけあし事件簿」 参考:『土佐藩』・『維新暗殺秘録』・『維新土佐勤王史』・『維新風雲回顧録』(2003.5.6) |
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