5月の幕末京都 幕末日誌文久2 テーマ別文久2 HP内検索  HPトップ

前へ  次へ

文久2年4月8日(1862.5.4)
【京】平野國臣、討幕三策を朝廷へ
【土】土佐勤王党、吉田東洋を暗殺

■久光上京と寺田屋事件
【京】文久2年4月8日、浪士平野國臣(次郎)は、率兵上京中の薩摩藩国父島津久光に期待する討幕三策(回天三策)を、曇華院の家司に提出し、朝廷に上げることを依頼しました。

上策 島津久光滞京中、朝命を下して大坂・彦根を攻めさせ、中川宮(当時青蓮院宮)の幽閉を解き、幕吏を退けて、天皇も箱根に進み、幕府の罪科を問う。
中策 久光が伏見に入り、幕吏を討ち、中川宮の幽閉を解き、四方に命を放って兵を召集し、中川宮を奉じて幕府の罪科を問う。
下策 久光が入京の際、幕吏を討ち、二条城を本陣として官軍を募り、「姦徒」を罰して尊王攘夷を議する。

島津久光は、3月16日に鹿児島を発ち、すでに兵庫まで近づいていました。約1000名を率いていたといいます。久光の目的は、武力と朝廷の権威を背景に幕政改革を断行し、公武一和を推進することでしたが、京坂に集まった激派は久光の上京は討幕のためだと信じており、久光への期待は高まっていました。

関連:■テーマ別「久光上京と寺田屋事件」■「開国開城」「文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上洛と寺田屋事件
参考:『維新史』三・『徳川慶喜公伝』2(2003.5.6)
土佐藩
【土】文久2年4月8日夜、土佐勤王党は藩の参政吉田東洋を暗殺しました。

吉田東洋は藩主に日本外史を進講した帰途でした。刺客は那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵でした。暗殺者三人は長州に逃れ、その後、久坂玄瑞を頼って京都の長州藩邸に潜伏しました。しかし、土佐藩の追及が及んできたので、久坂は薩摩藩の有村俊斎(海江田信義)と相談して、彼らを薩摩藩邸に移しました。その後、那須と安岡は文久3年8月の大和挙兵に参加して戦死。大石は薩摩藩士となって明治まで生き延びました。

関連:「土佐藩かけあし事件簿

参考:『土佐藩』・『維新暗殺秘録』・『維新土佐勤王史』・『維新風雲回顧録』(2003.5.6)

前へ  次へ

5月の幕末京都 幕末日誌文久2 テーマ別日誌  開国-開城 HP内検索  HPトップ