5月の幕末京都 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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☆京都のお天気:晴天(久光の日記より) ■旧参豫諸侯の集会 【京】元治元年3月30日、禁裏守衛総督・摂海防御指揮の一橋慶喜の呼びかけにより、越前藩邸で旧参豫諸侯の集会が行われ、摂海の砲台築造の諸侯負担及び春嶽の守護職辞表後の役職について話し合われました。 ●摂海防御(砲台築造の諸侯負担)について 宗城の日記によれば、結論は以下の通り。
また、越前藩の記録によれば、やりとりはこんな感じでした。
<ヒロ> もしかして、この面子が揃ったのは、2月16日の中川宮邸での集会(こちら)以来でしょうか?? 慶喜、早速、摂海防御について話し合っています。禁裏守衛総督願望で陰謀論が唱えられ続けている慶喜ですが、もう一つの役職である「摂海防御指揮」について、慶喜がまぎれもなく重要視してたいたことは、察せられるのではないでしょうか。実際、横浜鎖港交渉や長州の外国船砲撃の処置次第では、外国艦船が京都に近い大阪湾に押し寄せ、砲艦外交を迫る恐れがあったわけで、摂海防御は当時の重大課題だったわけですし。 *** ●春嶽の守護職辞任及び辞任後の役割について 越前藩邸の集会で、宗城は、慶喜に対し、春嶽の守護職辞職後の役割につき、京都に急変ある際の応援が適切であると主張しました。慶喜も了解しました。 慶喜は、春嶽の解職について、これまで反対していた中川宮は既に同意されたが、「何とか職名を附けさせられたしとの事にて製鉄所総督なと如何との御見込あり」と話しました、これに対し、宗城は、春嶽は最初政事総裁職を命じられており、次に守護職を命じられたのさえ「降等」なのに、今また製鉄所総督を命じられては、いよいよ「降等」であるから、春嶽の不服はもちろん、家臣が決して承服しないだろうと反対しました。さらに、春嶽には「矢張、京師に急変あらん時の応援なと然るへきか」と述べました。慶喜は「如何にも至当の御意見」であると了解しました。 <ヒロ> 中川宮が別の職名をと言い出しているのは、春嶽が守護職を辞職しても滞京することを前提にしているからです。中川宮は、3月28日、中根雪江の入説もあって、春嶽の辞職を許容することにしましたが、その代わり、滞京を強く求めました。慶喜への懸念から春嶽の留任を求めていた中川宮にとっては当然の要請だといえます。 この問いに対して、答えたのが春嶽ではなく宗城だというところが面白いですよね。しかも、宗城がいっていることは、辞職の上は帰国させろっていうことです。実は、宗城と春嶽はともに帰国することを密かに談合していました(こちら)。前日には宗城が春嶽を訪ねて長話をしていますから、そのときにも改めて話し合われたと想像できます。辞職許容の代わりに滞京を求められている春嶽からは、帰国は言い出しにくいことなので、宗城が代わって言い出したのではないでしょうか? 関連■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭問題・春嶽の守護職就任問題」 参考:『続再夢紀事』三p75-77, 『伊達宗城在京日記』p403-404(2010/10/4) 【京】越前藩邸の集会で、慶喜帰邸後、長岡良之助が来邸し、密談。一同の帰国について相談。(『伊』p404、『玉』三p758) |
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