3月の「幕末京都」 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

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文久4年2月16日(1864.3.23)
【京】幕府、参豫諸侯の御用部屋入りを命じる
【京】参豫諸侯(慶喜・久光・春嶽・宗城)、中川宮を訪問
慶喜「薩摩の奸計、三人は天下の大愚物」と暴言。
(参豫会議は急速に解体へ)
【京】久光批判の落書
【京】守護職更迭:容保、軍事総裁職を請ける/孝明天皇、容保に再び宸翰
【京】容堂の帰藩却下/

☆京都のお天気:晴(久光の日記より)
■参豫諸侯の幕政参加
【京】文久4年2月16日(1864年3月23日)、幕府は参豫諸侯に御用部屋入りを命じました

この日幕府に呼ばれて登城した宗城・容堂・久光は、慶喜詰所(これまで二条城会議が開かれていた場所)において、老中有馬道純から、「御用之有節ハ御用部屋へ罷出候様」との達しを受けました。酒席となり、将軍も出席して、参豫諸侯にお酌をしました。宗城は、将軍の酌につちえ、自分たちを「御ナツケ之御主意」だろうが、余り「御威光亡之筋」で、恐縮したと日記に記しています。(『伊達宗城在京日記』)

一方、慶喜は、上記3名が御用部屋にいるのをみて、「仰天」したそうです。朝命はあったものの、「是迄相防居候処」、春嶽が「守護職の威に乗」じて(注1)「決断」したものであろう、「徳川家の紀律今日より相崩れ申候」と嘆いたそうです。(2月18日付原市之進書簡)

(注1) 前日(15日)に守護職に就任したばかりの春嶽が、「速かに参豫の諸侯を御用部屋に入れ、断然政体を一新せらるべし」と「厳談」した件を指すものと思われます(こちら)。

<ヒロ>
参豫諸侯(特に春嶽)が強く主張してきた御用部屋入りがようやく実現しました)。市之進書簡によれば、守護職となったばかりの春嶽の2月15日のごり押しが効いたようですが、2月14日には、宸翰(1月27日)の請書提出に参内した将軍が、中川宮に迫られて参豫の御用部屋入りを約束していました(こちら)。このことが効いたのだと思います。(経緯は下記のおさらい参照)

それにしても、慶喜は参豫の一員であり、参豫諸候に向かっては御用部屋入りに賛成だという様子を示していたのに、実は他の参豫諸侯の御用部屋入りに消極的どころか、積極的に反対していたんですねぇ・・・。春嶽らが憤慨する「因循」な抵抗勢力は幕閣だけではなく、参豫内部にもいたのでした・・・。

慶喜にしてみれば、将軍後見職なのに朝議参豫であるという微妙な立場におかれており、1月20日に、将軍に内大臣の内三旨を伝える勅使が派遣されたときには、二条城内に慶喜に準将軍宣下との噂が流れ、一時大騒動になったり(こちら)・・・と幕府から、なにかあると疑念をもたれてしまうので、参豫諸候の御用部屋入りを推進するわけにはいかなかったとは思います。

それに、慶喜は、二度の宸翰(1月21日と27日)が薩摩藩によって起草され、密かに朝廷に提出されたものであることを、2月半ばまでには探り当てていたといいます(こちら)。 つまり、この頃には、参豫諸候(容保・春嶽・容堂・宗城・久光)の具体名を挙げ、彼らと協力するようと命じた1月21日の宸翰も、薩摩藩の起草によるものだとつきとめていたわけです。薩摩の策略にのって、参豫諸候の幕政参加を認めるわけにはいかない・・・、そんな気持ちになってもいたしかたない気もします。

●参豫の幕政参加(御用部屋入り)のおさらい

○二条城会議の誕生と春嶽の御用部屋入り
孝明天皇は、 1月21日に将軍に下した宸翰(内諭)にて、参豫諸候(容保・春嶽・容堂・宗城・久光)の具体名を挙げ、彼らと協力するようと命じていました(こちら)。内諭が下された翌22日、将軍は宗城・久光に宸翰を示して協力を依頼しました(こちら)。24日、25日、28日、参豫諸候は二条城に呼ばれて幕閣と国事に関する協議を行いました(二条城会議)が、幕府の最高意思決定機関である御用部屋入りを命じられたのは春嶽(=親藩の越前藩前藩主&前政事総裁職)だけでした(こちら)。また、春嶽は将軍入京の翌16日、将軍の諮問に応えるため随時登城を命じられていました(こちら)が、他の参豫諸侯は、幕府に召還されたときのみの登城と限定的です。

幕府は天皇から将軍に下された命令を無視できませんが、旧来のやり方からすれば、外様を幕議に参加させる(=御用部屋入りさせる)ことはもってのほかです。それでなくても、宸翰中に参豫諸侯の具体名があったことで、幕府の有司の中には彼らに対する疑念も生まれていました(こちら)。また、朝議参豫が御用部屋の一員になれば、朝議・幕議の双方に参加する彼らに、政治的主導権をとられかねません。幕府にとってみれば、二条城で参豫諸候との会議を設定するだけでも、非常な譲歩であり、彼らの御用部屋入りなど、とんでもないという認識だったのはないでしょうか。

○参豫諸候(雄藩代表)の御用部屋入り問題
さて、1月27日、天皇は、将軍に宸翰(詔書)を下した後、将軍との酒肴の席に総裁職・老中を召し出して、参豫諸侯と協力して議論し、「皇運挽回」に尽力するよう命じました(こちら)。翌28日、老中は、春嶽に対し、朝廷が参豫を置くことは「公平の御処置」ではないと廃止論を述べましたが、春嶽は、逆に参豫は「諸侯の巨壁」とも言うべき者なので、この際「参豫を廃して幕府の参謀に加」えれば、「真に公平」に至るだろう、と参豫の幕政参加を提案しました。同夜、一橋邸に集まったさ春嶽らは御用部屋入問題について話し合い(こちら)、どうやら慶喜が翌29日に幕閣に申し入れることになったようです。しかし、2月1日付春嶽宛書簡にて、慶喜は、自分は参豫諸候の御用部屋入りに賛成だが、「聊意味合」があって実現が難しく、代わりに自分の詰所まで通すことになった、と告げました。「聊意味合」とは、幕閣の反対を指すものと思われます。

○春嶽の守護職就任と「政体一新」の要求
この後、2月2日、5日、8日の3回、慶喜詰所において、二条城会議が開かれ、8日には長州処分の基本方針を決定しました。翌9日、幕府は容保の征長副将任命及び守護職更迭を決定し、容保に代りに春嶽に守護職を任命することになりました(こちら)。(容保の征長副将任命に伴い、春嶽が守護職に任命されることは、将軍上京前の参豫諸候集会(こちら)で合意されており、いわば内々の既定事項でした)。しかし、春嶽は、「廟議目下の如く因循」では守護職は到底請け難いと考えており、越前藩は、13日、藩議の結論に基づき、参豫諸侯を老中の上に置いて国事を議論する制度設立を求める意見書を将軍に提出しました(こちら)。15日、幕府が、軍事総裁職に転出した容保にかわって、春嶽を守護職に任命すると、春嶽は、守護職拝命の条件として、参豫諸侯の御用部屋入りによる「政体の一新」を求めました(こちら)。

○中川宮の圧力
14日、宸翰(1月27日)の請書を提出するために参内した将軍は、中川宮から「参豫の諸侯を閣中に入れて国事を議せしめられては如何」と促され、その通りにすると約束しました(こちら)

●「政体一新」と「創業」をめぐる慶喜・春嶽の温度差
参豫の御用部屋入り(幕政参加)を推し進めてきた春嶽は、文久3年の幕政改革を慶喜とともに実行してきた人物です。前15日の御用部屋で老中らに迫った「政体一新」についても、春嶽は、文久3年12月に慶喜をの意見を確認しています(こちら)

『続再夢紀事』の2月16日の条によると、かねてから、春嶽は「国家永遠の治安」を得るには「時勢に適する政体」を確立すことが肝要だと考えており、それには「第一に従来の幕習を脱却」すべきだと考えていました。しかし、老中以下幕府役人はそれに抵抗するだろうから、成否は慶喜にかかっていると、慶喜を訪ねたのでした。春嶽とのやりとりで、慶喜は、今の時勢に処すべき方針は「中興」ではなく「創業」であると述べ、「創業」の基本は在京諸侯との「衆議」の上確定すべきだとの春嶽の意見にも同意していました。

春嶽にとって「創業」とは「従来の幕習」から脱却するこを意味していました。 また、「時勢に適する政体」については、従来、幕政からは除外されてきた雄藩代表(朝議参豫)の幕政参加を担保し、彼等を交えた「衆議」(あるいは「公議」)によって国家の重要課題を決定する政体を考えていました。その方策として、参豫の御用部屋入りや参豫会議を幕閣の上におくことを主張してきました。

春嶽としては、文久3年12月の慶喜との「創業」をめぐるやりとりにおいて、「時勢に適する政体」に基本路線については合意ずみだとの認識があったはずです。しかし、今、参豫の御用部屋入りによって、春嶽の考える「時勢に適する政体」が実現しようというのに、それは慶喜には歓迎されず、逆に幕府の紀律崩壊につながるとみなされてしまっています。しかも、慶喜は、自分は参豫の御用部屋入りを防ごうとしてきたのに、守護職になった春嶽のごり押しで決まったことだと、春嶽に対して批判的です。なんだか、「創業」をめぐるやりとりは何だったのか?と思えてきます。

この点について、松浦玲氏は、文久3年12月の「創業」をめぐるやりとりは、「慶喜の方から積極的に意思表明したわけではなく、全体として、慶永の熱っぽい思い込みに反対はしなかった、という感じが強い」(『徳川慶喜 増補版』)と指摘しています。また、三上一夫氏は松浦氏の判断に同意した上で、慶喜は、文久2年の幕政改革にともにあたった「春嶽の「公議論」路線を一応承知するだけに、この時点では同意せざるを得なかったとみるべきだろう」(『幕末維新と松平春嶽』)としています。

なお、慶喜は、晩年の談話会(「昔夢会」)において、『続再夢紀事』にみえる「創業」の意味について何度も質問されています。まず、慶喜は、自分が「創業」と言ったのは、「(「中興」とは違って)創業ということになると何もないのだ、規則もなければ慣例もないのだから善いと思ったことはすぐやれる・・・早く言えば、紳祖が天下を何したあのとおりにやればいいのだ。それで旧格やなんぞに泥んでいかぬという意味で創業といったのだ」と答えています。さらにここでいう「創業」は「幕府の創業」のことだとも認めています。しかし、質問者が「つまるところ、幕府の旧弊をまるで脱却しました新たな政治をお立てなさるという御意味で・・・・」とさらに突っ込むと、話は人材登用にずれてしまい、結局、的確な答えは得られずじまいでした(『昔夢会筆記』)。←よくあることですが、意図的になのかどうかはわかりません。

参考:『伊達宗城在京日記』p338、『徳川慶喜公伝』史料編ニp37-45、『昔夢会筆記』p213-215、『徳川慶喜 増補版』、(『幕末維新と松平春嶽』)(2010/4/13, 12/31)
関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■幕末日誌元治1 ■テーマ別元治1「参豫の幕政参加問題「参豫会議解体:参豫VS慶喜/幕府」 

■参豫会議、急速な崩壊へ

【京】文久4年2月16日(1864年3月23日)、慶喜・春嶽・宗城・久光の参豫諸侯4名は、前日の朝議(こちら)の真意を確認するために、中川宮邸を訪問しました。中川宮邸で、慶喜は激論をしたあげく、明17日に横浜断然鎖港の請書を別途提出すると言って、退出しました。席上、薩摩藩は「奸計」を有していると述べ、久光・春嶽・宗城は「天下之大愚物・天下之大奸物」と暴言したともいいます

(ヒロ:これまで参豫内で議論が紛糾したことはありましたが、ここまで露骨になったことはなく、以後、参豫会議は急速に解体していきます・・・。なお、この一件は、慶喜が抵抗してきた参豫の御用部屋入りが決まった日でもあります。参豫の幕政参加を徳川の紀律崩壊の危機とみなす慶喜は、中川宮の前で酩酊をいいわけにあえて暴言を吐くことで、参豫3名との亀裂を深め、参豫会議自体を解体に導き、国政の主導を幕府に取り戻そうという意図を持っていたのではないかとも思います)

●中川宮邸訪問の目的・経緯
参豫諸侯が中川宮邸を訪問した目的は、前日の参内時に請書を修正せよといわれたのは、どういう朝議から出たものか「了解がた」く、今一度朝議の在る所を確認するためでした(『続再夢紀事』)。最初、宗城と久光が中川宮に確認に行くことを申し合わせていたところへ、それを聞きつけた慶喜と春嶽が合流したそうです(『伊達宗城在京日記』)。

2月18日付原市之進書簡には、(慶喜から聞いた)中川宮邸訪問に至った経緯が詳しく記されています。 この日、慶喜が御用部屋に入ると、久光・宗城が居合わせており、今朝、高崎猪太郎(薩摩藩士)が中川宮に呼ばれてうかがったところ、昨日の朝議(急速な横浜鎖港)は「全く一時之拠なき都合」であのようになった、「アレ(=急速鎖港の沙汰書)ハ偽りニ尽見消シニ致」すよういわれたと言い出しました。彼らは、真意を確認するために中川宮邸に参上するつもりで、慶喜を待っていたとのです。「驚」いた慶喜は「夫ハ相成不申」と、一緒に中川宮を訪問することになったそうです。

●中川宮邸での慶喜の激論
中川宮との会談では酒肴が出され、「大に酩酊」した慶喜は「頗過激の議論」に及んだため、春嶽は家臣に命じて慶喜を立ち去らせました(『続再夢紀事』)。退出するとき、慶喜は「横浜鎖港ハ是非仕」るとの「書付(=新たな請書)」を明日差し出すと言い置きました(『伊達宗城在京日記』。)

○激論の内容(by 原市之進書簡(注1))
2月18日付原市之進書簡によれば、中川宮邸に着くと、慶喜は、中川宮に、横浜急速鎖港の沙汰書は偽りだという発言について確認しました。そうしたところ、中川宮は、猪太郎は来たが、自分は「偽りの真のと申事」は言っていないと弁解しました。

慶喜は中川宮が薩摩藩を信用し、「奸計」に欺かれているから、「異同」が起こるのだと難詰したあげく、「偽り」でないのであれば、「横浜鎖港断然」の請書を提出すると述べました。

さらに「暴論」ついでとして、春嶽・宗城・久光の3名を「天下之大愚物・天下之大奸物」と評し、彼らを信用しないよう求めました。

中川宮邸におけるやりとりはこんな感じでした↓

慶喜
昨日の朝廷の「御沙汰(=急速鎖港の沙汰書)」ハ偽りニ付見消に致」すよう、今朝高崎(猪)に言われたと聞き、その御口上をしかと伺いたく、参りました。

中川宮
そのような事は「相心得不申(覚えがない)」。
このことは、三郎(=久光)が申し立てたことで、今、同道しているので聞きましょう。
(三名を席に呼び出し、問い糾したが、久光は「一口も出不申」、ただ「恐れ居候」というだけであった)
猪太郎は、今朝参ることは参った。しかし、自分は「偽りの真のと申事」は言っていない。
「天下重大之事件」を「斯く陪臣風情之者」(=猪太郎)へお語りになるので、このような「異同も出来」るのです(注2)。畢竟「サツ人之奸計天下之知る所」ですが、「宮御一人御信用・御欺かれ」、このような「大異同を引出」すことになるので、きっと「御心得」いただきたい。

今日の件は「天下之安危」に係りますので、篤と宮の御口上を伺い、「偽り」と言われるなら、「御一命頂戴、私も屠腹の決心」で刀も用意していました。あのように「御覚無之」と言われては、強いて「突撃」する理由もありません。

しかしながら、「元来朝廷之御基本」が立たず、「兎角朝夕と変化」するのでは、「実に天下信を取る」(=天下の信用を得る)ことはできません。恐れながら「宸翰も人を欺」く手段になっては、「天下」が「畏服」するでしょうか。全て「御威光を相汚」すものです。昨日申し上げたこと(=「断然鎖港丈ケの宸翰」作成を願ったこと)もありますが、今日の模様を考えると(とかく変化するので)宸翰を願うのも「無益」です。

明日、老中が「横浜鎖港断然」を御請けするので、(横浜急速鎖港の沙汰が)偽りではないというなら、「断然鎖港之義、御満足に思召候旨」の仰せがあるよう周旋されたい。その上で、それを列藩に布告しましょう。もはや、宸翰・直書などは願いません。
(中川宮及び三名は、一言もなく、顔色は土のようであった)
(暫くして)「叡慮音満足之義」はどのようにも周旋致すので、明日は(「横浜鎖港断然」を)申し出るようにせよ。
今日は暴論ついでに「今一ツ暴論」申し上げる。

「此三人ハ天下之大愚物・天下之大奸物」なのに、なぜ宮は信用されるのか。三郎(=久光)には「台所」を「任」せている(=財政支援を受けている)ので余儀なく御随いになっていることもあるのでしょう。明日からは私が支援しますので、「私へ御随可被成」。「天下之後見職」を「大愚物同様に」見られては「さし支申」します。

畢竟、「三人之愚説を御信用」になって「今日之如き大誤りを御引出し」たのです。かつ、過日の宸翰にも「三人の愚物」を「子の如く思」われる旨を認めになりましたが、そのような「御目がね違いも」宮からの言上の仕方が宜くないせいですので、以後は屹度お心得あり、私の申し上げた事が「心得違」いと思われるなら、明日から参内いたさず、拝顔も今日限りと存じます。もし、「尤之筋」と思われるなら、例の「御満足之義云々」を御周旋ください。もし、仰せ出されれば、御礼に参上いたしますが、それまでは最早参上致しませんので、左様御承知ください。

●慶喜退出後の中川宮内談
慶喜退出後、春嶽が「昨夜の次第」(=朝廷が急速な横浜鎖港を求めたこと)を尋ねると、中川宮は、事情を説明し(下記参照)、単なる「行違」いで「深き存念」はないので、相談してどのようにも取り計らうよう命じました。春嶽は、幕府と相談の上、明17日に慶喜と参内して「鎖港の処置方を明記」した「請書」を二条関白に提出すると答えました。

中川宮の内談については、ところどころ、これまでの「今日」で参照してきましたが、改めて、以下、『続再夢紀事』及び『伊達宗城日記』バージョンの両方を列記します。

○『続再夢紀事』バージョン


春嶽
(「昨夜の次第」(=朝廷が急速な横浜鎖港を求めたこと)について尋ねる)

中川宮
  • 先日、薩人が横浜鎖港に関する幕府の上奏文案を陽明家(前近衛関白)の内見にいれたことがあったが、今度の請書中には「鎖つるとも鎖ちさるとも」明確にされておらず、陽明家始め三公で「さてハ参豫諸藩に協議せす幕府限り認められた」もので、「例の因循主義の手に」よる書面だろうとの「疑念を起」した。
  • それで、昨日一橋へ請書中云々の部分の修正を相談したが、一橋は「予め参豫一同へ開示して同意の上」差し出したものなので、今更修正は困難であると答えた。
  • そこで、再び別席で相談することになったが、隅州(=久光)は鎖港不可の意を「極論」し、一橋が「同意の上」と言った事に「折合」わず、「殊の外むつかしき事にな」った。陽明家はもともと「内見の書面(=横浜鎖港の上奏文案)」から「疑念を起」していたので、公然とは「委細の説解」をすることもできかねた。
  • 全く「いさゝかの行違ひ」でこのような次第になった事で、「別に深き存意のある事」ではなく、「御相談によりて如何様にも計ら」ってほしい。
幕府と相談の上、明17日に慶喜と参内して「鎖港の処置方を明記」した「請書」を二条関白に提出しましょう。

○『伊達宗城在京日記』バージョン

中川宮
昨夜は、伊(=宗城)と大隈(=久光)より「きひしくきめられ」、一人「大閉口」した云々。

宗城・久光
甚だ「御無理之御書付(=急速鎖港の沙汰書)」なので「閉口仕」りました。
(「大笑」)
なぜ、あのような「御書付」が出来たか伺いたいものです。

中川宮
最初、一橋だけに逢った際、一橋は(宸翰の請書の修正については)既に布告したので「取返」す訳にもいかないと反対し、かつ、そのままでは「人心之沸騰之御懸念」があるので、朝廷から「横浜ハ弥可鎖」との「書面」を下さればよろしいと言った。

朝廷内でも、請書すら20日もかかるような幕府の「因循」であり、請書中に横浜鎖港を確かにするという文言がなければ、幕府が鎖港をすることは「甚無覚束」との話をしていた。

だから、自分が「試ニ書付(=急速鎖港の沙汰書)」を認め、相談に及ぶつもりだったのだが、「御両人(=宗城・久光)」が「御不落意御弁論」の間、一橋は「黙止」しており、やむを得ず自分一人が応対することになった。

宗城・久光
最前から、「一橋始閣老中」は横浜鎖港だけは、「別紙」で出したい様子だったので、その思いから(曖昧な請書を)出したのでしょう。

しかし、(昨夜中川宮が示した)「御書面(=急速鎖港の沙汰書)」はそのまま実行しがたいものだったので、(慶喜は黙り込み、代わりに)自分たちに「弁解」を言わせたのでしょう。それゆえ、「酔中」でありながら、「書付(=「横浜鎖港ハ是非仕候由」の請書)」を明日差し出すといったのではないでしょうか。
(中川宮は初めて理解した様子で、お互いに「疑惑も氷解」と「大笑い」した)

久光
(実際、只今は、横浜鎖港が実行しがたくて当然である訳を述べる)

中川宮
何分「三人共不相替公武御為尽力」いたすように。

●おまけ:退出後の慶喜(by 市之進書簡)
慶喜は、その晩に原市之進と梅沢孫太郎(注3)を召し出し、両名の前で大気焔を上げました。「今日は愉快、千載之愉快」とも言うべきで、「積日之痛憤」が「一時快発」した。「尹宮(=中川宮)之、三奸之大狡計」を一言で「打壊」し、「痛快無比」この上ない、と述べ、「劇飲」しながら、15日・16日両日の事情を語って聞かせたそうです(注4)。市之進らにも「痛飲せよ」と手酌をし、両名は不覚にも感泣したそうです。市之進は、そのときの慶喜を「烈公(徳川斉昭・慶喜実父)之御神霊」が本当に乗り移ったかのようで、「御勇気勃々」とし、これまでの「醇謹」な容子とは似合わないほどで、「御勇気之程、誠に以て難有御事」だとその感動ぶりを記しています。

(注1) 慶喜は、後年、市之進書簡について、概略はその通りだが、「甚だしく修飾に過ぎ」ていると評しています。特に、15日の御前会議での「激論」については覚えがない旨を発言していますが、16日に中川宮邸で「暴論を吐いた」ことは認めています。ただし、自分が鎖港説を主張したのは、「されば、当夜宮邸にて論ぜしことは、実は衷心に反せることももちろんなり。その後江戸留守の板倉周防守に書通して、『いかなれば御上洛にかく愚かなる決議をなしたるや』と詰りたるに、さればこそ因ずるなれ、己は一にもニにも薩州の説に雷同すべからずとはいいたれども、善きも悪しきも一切その説に耳を傾くべからずといえるにはあらずと答え来れり」(『昔夢会筆記』)、
(注2) 市之進書簡によれば、慶喜は、この高崎猪太郎が二度の宸翰を中川宮邸に持参したことを探り当てていました。その件もあてこすっているのではないでしょうか。
(注3) 両名とも元水戸藩士。(←慶喜の実家)
(注4) 慶喜に感動・感激した市之進が、翌々日に慶喜から聞いた話を国許に知らせるために認めたのが、度々引用している市之進書簡となります。

参考:『続再夢紀事』ニp430-432、『玉里島津家史料』ニp751-、三p111、『伊達宗城在京日記』p337-、『徳川慶喜公伝』史料編ニp37-45、『昔夢会筆記』p27、228-232、『幕末政治と薩摩藩』、『徳川慶喜 増補版』(2002/3/24、2010/4/13)
関連:■テーマ別元治1 「将軍への二度の宸翰」」「横浜鎖港問題(元治1)」 「参豫会議解体:参豫VS慶喜/幕府」  ■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊


【京】文久4年2月15~16日頃、四条柳馬場あたりに久光批判の落書が張られました。

                   島津三郎
恐れ多くも上 天朝を奉軽蔑、下不構万民の困窮を、中川宮を手先にいたし、己の奸謀を逞条、
表は夷人打払と申て内々交易致条、但赤銅・銭・茶・油・綿、其他色々、
不忠大名と同腹いたし、天下大乱の基を生ずる事、
御国之御為を考へ候有志の者共を駆逐する事、
叛逆之事
右罪状の外雖有之略畢
  子二月             有志之者

<ヒロ>
一では中川宮が久光の手先扱いです(笑)。三の「不忠大名」は、春嶽・宗城あたりでしょうか・・・。この日の中川宮邸の慶喜の暴言と似ているところがあるのが面白いですね。

参考:『玉里島津家史料』三p203(2010/4/13)
関連:■テーマ別元治1」「将軍への二度の宸翰」」「横浜鎖港問題(元治1)」■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊

■会津藩の守護職更迭
【京】文久4年2月16日(1864年3月23日)、会津藩士手代木直右衛門・外島機兵衛は、藩主容保が軍事総裁職を請けたことを、一橋家における集会で伝えました。


この日の夜、越前藩士中根雪江・酒井十之丞は一橋邸会議所を訪れ、黒川嘉兵衛が出てきたところへ、川越藩から四天王兵亮、会津藩から手代木直右衛門外島機兵衛が来会しました。話題は、会津藩に集中しました。

この日のやりとりのポイントは以下の通り(番号は仮)
(1) 席上、長州に関する件は「何事によらず会侯引受られ、談判応接等まで一手に扱」われるよう示談になったところ、手代木・外島は異議なく承知した。
(2) 手代木・外島は、容保の軍事総裁職就任に関して、「一藩中にも種々議論」(注1)があったが、昨夜までに決議となり、今日、容保が登城して、御請けに及んだと話した。
(3) 手代木・外島は、いよいよ征長となったときは、将軍も先頭に立つべきだとの「衆議」であり、追って建議をする予定であると述べた。
(4) 手代木・外島は、会津藩は「内ど疲弊を極め在京の藩士を扶持するにも指支」えがあるほどだが、思うことあってこの事は申し立てず、「断然軍事総裁職の命を奉「じた」と明かした。中根・酒井は、それらのことは、一橋殿・川越殿が配慮されるべきだと意見を述べたところ、一同は同意した。
(5) 中根・酒井が、横浜鎖港の件について訪ねると、手代木・外島は、「一旦死地に陥れ然る上人心を振起」させる策であると答えた。
(出典:『続再夢紀事』 管理人は素人なので資料として使わないでね)

<ヒロ>
これまで、めったにこういう場に現れなかった会津藩士ですから、ここぞとばかりに話題が集中した気がします!また、この日の昼間には、二条城に越前藩士中根雪江・薩摩藩士高崎猪太郎、会津藩士野村左兵衛、小室金吾、秋月悌次郎らが召喚され、老中以下諸有司列座の席上、摂海防衛の方策を諮問されています。

なお、この頃、容保は病床にあり、この日も抱きかかえられながらの登城だったほどの容態だったそうです。

参考:『京都守護職始末』、『七年史』ニ(2002/3/24)、『続再夢紀事』ニp433(2010/4/13)

■会津藩へ内密の宸翰/守護職更迭
【京】文久4年2月16日(1864年3月23日)夕、孝明天皇は伝奏野宮定功を通し、会津藩主松平容保に、再び内々の宸翰を下しました。

前回の宸翰(こちら)からわずか8日後のことでした。

今回の宸翰の大意は以下の通り。(意訳+勝手に箇条書きしています)

先日の「拙書」への返書を「熟覧」して「ふかく喜び」でいる。依頼の趣意を遣わそうと思いながらも、日々多忙で寸暇も得ず、書き取れないでいる。
去る11日、関白から、その方が征長副将となるため、守護職解任となり、代わって春嶽が就任する件をきいたが、「甚残懐之至」である。藩中の兵威が調っていることから登用になった段は「賞悦之至」だが、「守護職免候段、深残懐」である。
先日の内勅の件を依頼している時期ではないと存じる。出立まで時間もないであろうし、周旋を依頼して一両日あるいは四五日で済むことだとも思われないので、難しいと存じるが、どうだろうか。
「事(=征長)済之上は更に守護職に任儀は成間敷哉」。内々に聞くので勘考してほしい。
前の宸翰で依頼の件は復職後に致すべきか。なお相談したい。
くれぐれも「復職之段、深入魂致置」くようにせよ。
(以下、追記)
依頼の件は「守護職ならば重畳」だが、守護職である必要もない。復職までに時間がかかるのであれば、職に任ぜずとも周旋できるだろうか。また「一向春嶽へ通書」を試みるべきだろうか。腹蔵なく意見をきかせてほしい。

二回の宸翰を読んでも、依頼が何なのか、容保らには見当もつきませんでしたが、何であれ、「遵奉するは臣子の道なるを以て」、奉答書をしたためました。

奉答書のポイントは以下の通り。(意訳+勝手に箇条書きしています)
御内頼の件については、自分か春嶽かどちらに命じたほうが速やかに行き届くかはなんとも申し難い。しかし、春嶽に御沙汰があれば、当人も謹んで遵奉するだろうし、却ってその方が「御都合」がよいと思われる。しかし、そのへんは「御沙汰次第」であり、いかようにも仕るだろう。
守護職を解任されてもなお復職を思し召されるのは「冥加至極」であるし、長く簾下に留まることは自ら「懇願」するところだが、進退は自分では何とも言いがたい。もし、「聖慮台命」があれば、「遵奉候条」は相違ないので、寸衷のほどを御諒察願いたい。
歴史を振り返ると、「万機之大柄・賞罰・進退、第二派・三派に分れ候ては天下騒乱之下基」となってきた。今日の「皇国の事態」においても、「天下の万機悉皆征夷府ヘ御委任被遊、公卿・御堂上は禁中の式事を専とし、国事に携りなき方」が皇国の御為」に返って「宜敷義」と存じる。
将軍は未だ幼年で行き届かぬ点があるだろうが、三親藩及び越前藩・会津藩等へ命じられれば、みな、「聖慮」が「貫徹」するよう「尽力」仕るだろう。
春嶽の守護職任命は「至極之良選」だと存じる。万一、春嶽の解任があれば、後任は「三藩其他親戚・譜代」に命じていただきたい。もし、外様に命じられることがあれば、「政柄ニ派になるの患ありて、天下之折合、決して可不宣」と存じる。

<ヒロ>
春嶽は前日の2月15日に守護職に就任したばかりでした(こちら)。同じ日、朝廷参豫会議が天皇の簾前で開かれており、「横浜急速鎖港」をめぐって、慶喜と参豫諸侯(春嶽含む)が対立していました。むろん、春嶽は急速鎖港に反対です。過激な攘夷は好まないものの、鎖港攘夷主義の孝明天皇は、新守護職の春嶽が果たして信用できるかどうか、不安を感じたのではないでしょうか。(8.18の政変時の功労を抜きにしても、容保のほうが、何でも意見きいてくれそうですし)。

容保は、春嶽に沙汰があれば当人も謹んで遵奉するだろうし、そのほうが御都合がよいだろう、と奉答しています。しかし、その後、孝明天皇は、春嶽に依頼することはなく、逆に、容保の復職を幕府に働きかけることになります・・・。やっぱり、京都滞留は「臣之懇願」だとか、守護職復職については「聖慮・台命」があれば「遵奉」する・・・って書いたのがきいたのでしょうか。ホンネでは国力疲弊から守護職復帰は回避したい会津藩は、容保の病を理由に守護職復帰を拒み続けることになります。

参考:『京都守護職始末』巻之下p22-26(2002/3/24, 2010/9/23)
関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別元治1 「会津藩の賞揚」、「会津藩の守護職更迭問題」■守護職日誌元治1 

■天誅組
【京】文久4年2月16日(1864年3月23日)、幕府は六角獄において、天誅組19名を斬刑に処しました。

安積五郎 江戸 贈従四位 鶴田陶司 久留米 贈従五位
渋谷伊豫作 下館 贈従四位 酒井伝次郎 久留米 贈従五位
伴林六郎 元大和中宮寺家士 贈従四位 荒牧羊三郎 久留米 贈従五位
安岡嘉助 土佐 贈従四位 中垣健太郎 久留米 贈従五位
安岡斧太郎 土佐 贈正五位 江頭種八 久留米 贈従五位
沢村幸吉 土佐 贈正五位 尾崎健蔵 因幡鳥取 贈正五位
島村省吾 土佐 贈正五位 岡見留次郎 水戸 贈従四位
土居佐之助 土佐 贈正五位 尾崎濤五郎 島原 贈従四位
森下儀之助 土佐 贈正五位 長野一郎 河内人 贈正五位
田所騰次郎 土佐 贈従五位

なお、のちに御陵衛士となった篠原秦之進は天誅組酒井伝次郎とは安政年間にともに尊攘に尽そうと誓い合った仲だったといいます。

参考:『維新史料綱要』五
関連: ■「開国開城」8/10月:大和の乱・生野の乱 ■テーマ別文久3「天誅組」■志士詩歌「大和五條の乱」(2010/4/13)

■その他の出来事
【京】松平春嶽、大蔵太輔と改名命じられる
【京】山内容堂の帰藩却下
【京】将軍家茂、松平春嶽・松平容保を召し、各刀一口を与える
【京】幕府、中根雪江・野村左兵衛・小室金吾・秋月悌次郎・高崎猪太郎に摂海防御を諮問
参考:『維新史料綱要』五(2010/4/13)

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