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元治1年3月28日(1864年5月3日)

【京】容保の守護職再任:会津藩、幕府に対し、容保の病を理由に
軍事総裁職辞職・守護職再任辞退の願書提出
【京】春嶽の守護職辞任:中川宮、春嶽の留任を断念。代わりに滞京を強く求める。
【京】中川宮、慶喜の九門警備を交代寄合に担当させる意見を、越前藩士に相談。
【京】長岡良之助、宗城訪問。諸侯帰国を相談。宗城、同意。

☆京都のお天気:晴(久光の日記より)
■容保の守護職復帰問題

【京】元治元年3月28日、会津藩は幕府に対し、藩主松平容保の病を理由に軍事総裁職辞任及び守護職再任の内命辞退の願書を提出しました。また、別紙として長州処分・横浜鎖港問題について将軍自身の「憤発」を請う意見書を出しました。

願書提出のきっかけとなったのは、同月25日の慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任(こちら)に伴う不安でした。


<ヒロ>
●慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任に伴う会津藩の不安
会津藩は、これまでも、守護職再任について、容保の病を理由に抵抗してきました。もちろん、容保の病は事実なのですが、再任に抵抗してきた大きな理由は国力疲弊でした。ところが、抵抗はしながらも、会津藩には再任は遁れられないものと覚悟していた節がありました(注1)。

ところが、今回、会津藩が再任辞退の願書を出すことになったのは、以下のように、3月25日に一橋慶喜が禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任したことに不安を感じたからでした。

(1) 慶喜の総督就任により、実の兄弟が藩主であり、長州シンパの鎖港攘夷派である因幡・備前両藩等が影響力を強め、彼らの入説によって長州処分が寛大になり、いずれ長州藩が入京することになって、文久3年の8.18政変(会津藩と薩摩藩が主導)後の体制が覆り、会津に不利になるのではないか、との懸念を抱いた。(注2
(2) 慶喜の気質(注3)を考えたとき、慶喜が守護職の「上官」になったのでは、復職しても以前のような精忠を尽くせないと感じた。(注4

そこで、幕府から正式な復職の沙汰が下る前に、容保の病を理由に辞退し、帰国した上で、国力を養い、時節を待って再び「誠忠」を尽くそうということになり、公用方から、容保に意見を具申したところ、「至極可然」と同意したので、願書を提出に至りました。このとき、容保は、願書を出すからには「存分尽力周旋」し、「是非是非仕取ニ相成候様可致旨」命じたそうです(『会津藩庁記録』四p333-334)。今回は、かなり本気です。

●禁裏守衛総督と京都守護職の関係
当時の書簡から、在京会津藩は、禁裏守衛総督が守護職の「上官」にあたるポストだという意識をもっていたことがわかります(注4)

注1 ・「件々之都合を以ハ(復職を)御遁れ可被成候は有之間敷」(元治元年3月19日付江戸・会津御用所宛京都御用所書簡)
注2 ・「此度、一橋様総督に被為成候ニ付而ハ、因備を始、暴論之徒、品々入説可致、随而、長州御所置も最初之御模様と違ひ、寛大之御振合と相聞、左候ハハ長藩も追入込可申・・・・長州彼我所を替、是迄之御忠節、御令名も風前之露と相成間敷儀ニ無之、不安至極之御場合と奉存候」(元治元年3月28日付高橋外記・田中土佐宛一瀬要人他書簡『会津藩庁記録』四p332)
・「長州処置振、寛大之御含ニ付而ハ、定而、此先追々長州人入込候様ニも可相成、左候てハ、八月十八日之御一條、全御家と薩州と之取計と申儀ハ、兼而相弁居候儀ニ候へと、此後、如何様之義、相功(巧カ)ミ候哉も難計」(『会津藩庁記録』四p445-446)
注3 『京都守護職始末』において、旧会津藩士山川浩は、「慶喜卿の特性」は「資性明瞭で、学識もあり、その上世故に馴れているので、処断流るるがごとくであり、頗る人望のある人であるが、その実、志操堅固なところがなく、しばしば思慮が変り、そのため前後でその処断を異にすることがあっても、あえて自ら反省しようともしない」と記している。

・「一橋様、御気質ニ而上ニ御立被成候而ハ、兼而之御振も被為在候事ニ而、乍恐、中将様御誠意何分上下へ被為貫候相成間敷奉存候」(元治元年3月28日付高橋外記・田中土佐宛一瀬要人他書簡『会津藩庁記録』四p332)
・「此度、一橋様禁裏守衛総督・摂海防御指揮等被為蒙仰、兼而之御気質ニて御上官之御場ニ被為在候てハ、仮令御復職被遊候而も、迚も是迄之通り御精忠可被為尽様も無之候」(『会津藩庁記録』四p444-445)

参考:『会津藩庁記録』四p332-334、444-445、『京都守護職始末』2p38-39(2010/10/3)
関連■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭問題・春嶽の守護職就任問題」 ■

■春嶽の守護職辞任問題

【京】元治元年3月28日、中川宮は、越前藩士中根雪江の入説によって、春嶽の辞職反対を断念しましたが、引続いての滞京を強く求めました。中根は、他諸侯にも滞京が命じられればら、春嶽も朝命を奉じるだろうと答えました。

○春嶽の辞任問題
中根雪江は中川宮を訪ねました。そのときのやりとりはこんな感じです。

中川宮
昨日、良之助が来て内情の趣は委細に承った。しかし、良之助と一橋殿とは格別懇意の仲であり、一橋に関する事は申し聞かせがたいので、此方の存意は良之助の心中には徹底せぬ所があっただろう。
中根 これまでの御懇命もありますが、「此上再ひ人心を振興せしむへき見とめ」がありませんので、幾重にも内願の通り御許容ある様御配慮を願い奉ります。、

中川宮
昨日、一橋中納言が説得に行くとのことだったが、どうなったのか?
中根 (前日の模様を述べる)

中川宮
それでは、説得というべき程の事もなかったのだな。開鎖の事は、春嶽と自分と意見に相違がありと、兼ねてから申していた事もあり、矢張り、それらの事から「嫌疑に渉る事」なきにしもあらずなのだろう。昨日、十之丞・近江が陽明家に参って言上したそうだが、此方は雪江に申し置いた次第があるので、(近衛前関白には)今しばらく辞職の件の決定は見合わせられよと申し談じておいたのだ。しかし、今承った様子では、強いてとは申し難い。

退職の上は直ちに帰国の心得なのか、それともそのまま滞京の心得なのか?
中根 職務は幕命によるものですが、上京は朝命を奉じたものですので、朝廷から御暇を賜らねば帰国すべきではありません。そこで、職務解免の上は、直ちに出勤して参殿も仕りましょうし、何事によらず御相談も仕るでしょう。

中川宮
「当節の御用向、何とか其局を結ふ迄の間ハ是非滞京せられすてハ済かたし」
中根 滞京の事は如何様とも仕りましょうが、たとえ朝命であっても、春嶽一人で御用をいたすべきではありませんので、その際は、他の諸侯をも同様に御沙汰あらせられますように。

中川宮
その心得なので別に存意はない。職務のことは、明日、更に陽明家に申し談じよう。ただ、正親町三条や久世へも解職を願う事情を申し入れておけば、評議の際に自然と都合がよろしかろう。

○御所外講九門警備問題

中川宮
先日来、一橋より、諸大名の九門警備を解き、交替寄合(=老中支配の旗本)に受け持たせたいとの申し立てがある。これは諸大名を京都に留め置くまいとの意見だろうが、「因・水・備なとの如き疎暴の論を主張する藩ハ兎も角も」、諸大名を残らず帰国させようというのは、「例の幕私」なので、朝議は未だ決定にいたっていない。今日は、大隈守を呼び寄せてそ意見を尋ねるつもりだが、その方の見込みは如何か。
中根 諸大名の警備を解いて交替寄合などに命ぜられては「人心の居合」がよくないでしょう。殊に、目下、九門の警衛を担当する諸大名には「疎暴の論を主張する輩」があるとも覚えませんので、このままに据え置かれ、九門内各地の分に限って諸大名の警衛を解き、その跡も交替寄合などではなく、守護職・所司代に担当させればよいのではないでしょうか。、

<ヒロ>
●御所外講九門警備
慶喜の要請には、九門警備に諸侯がいることで、その関係者が公卿と接近し、朝議に影響力を及ぼすことを警戒している面もあるのではないかと思います。両者の発言から、この時点で「疎暴の論」を唱える藩(因幡・備前など)は、九門の警衛から外れているようです。つまり、慶喜は長州シンパだけではなく、諸藩一般を九門警衛から締め出したかったのではないか、と思います。

ちょっと思い出すのが、文久3年5月20日に朔平門外の変(姉公路公望暗殺)直後に、守護職(当時)の会津藩が、九門警備の独占を願い出た件です(こちら)

両者、同じような発想ですよね。

参考:『続再夢紀事』三p69-72(2010/10/3,16)
関連■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭問題・春嶽の守護職就任問題」■テーマ別文久3「御所九門・六門警備」/元治1「御所九門・六門警備」■幕末豆知識「御所の九門・六門」

■参豫諸侯の帰国

【京】元治元年3月28日、長岡良之助は伊達宗城を訪ね、諸侯の周旋はやめて幕府に任せ、中川宮・近衛家への守衛兵を残して藩主は帰国(緊急時は速やかに上京)するようにしたいと相談しました。宗城は、これに同意し、久光とも打ち合わせることになりました(春嶽とは打ち合わせ済のため)。

宗城は、この間から、長岡には、慶喜に「憤発」するよう勧めてほしいと言って置いたそうです。この日、宗城を訪ねてきた長岡は<何分思うようには参りかねます。「幕府御政務之儀」も「実に 安因循」で、とても力に及ばず、うかうかしておれば、進退がどうにもならぬことになるでしょう。このたび、「両地一橋総督にも被命候儀、最早、(諸侯が)銘々周旋ハ相止、幕へ為任奉り、早々主人主人ハ帰国、跡、尹宮・陽明殿(ママ)抔御方守衛之家来残置可然。何れ事端開可申、其時、速ニはせのほり可申、其時之儀ハ同意之兄ハ申談、不致違背候有之度」という趣旨のことを話したそうです。

宗城は長岡に「素より同意」でした。前日に春嶽とは「談合済」であったため、薩摩藩邸に両人で赴き、相談することを約束しました。

<ヒロ>
○前日の春嶽との「談合」
越前藩の記録(『続再夢紀事』)によれば、前日、宗城は越前藩士中根雪江を呼び出し、近衛前関白・中川宮が慶喜への懸念を理由に春嶽の守護職留任を望んでいることを知らせました。中根が、長岡良之助から聞いた話(中川宮が辞任を許容)を伝えると、宗城も、それなら辞任に同意しようと述べていました。帰国の件については触れられていないのですが、その際に、「談合」したということでしょうか。

この日、中根は、辞職を許容する代わりに滞京を求める中川宮に対し、「滞京の事は如何様とも仕るへけれと、仮令朝命にても春嶽一人にてハ御用を弁すへきにあらさる故、自然尚滞在仕る事なれハ他の諸侯をも同様に御沙汰在らせらるる様に」(『続再夢紀事』)と申し入れていましたが、裏を返せば、他諸侯が残らなければ帰りますよ、ってことになります。前日に宗城との間で一斉帰国を「談合済」だったとすれば、上の発言は伏線をはってることになりますね。なんか、ちょっと、ずるっこい・・・(笑)。

参考:『伊達宗城在京日記』p401-402(2010/10/4)

【京】宗城・久光、中川宮邸集会(『伊』p400-402)
【京】将軍家茂、近侍を派遣して宗城・久光に物を賜う
【長州藩】藩主毛利敬親、家老・末家の入京を朝幕に請う。また、三条実美らの復職・藩主父子いずれかの上京を朝廷に請う(『維』五)
【外国】横浜鎖港交渉使節、ナポレオン三世に謁する。(『維』五)

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