5月の幕末京都 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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☆京都のお天気:晴(久光の日記より) ■容保の守護職復帰問題 【京】元治元年3月28日、会津藩は幕府に対し、藩主松平容保の病を理由に軍事総裁職辞任及び守護職再任の内命辞退の願書を提出しました。また、別紙として長州処分・横浜鎖港問題について将軍自身の「憤発」を請う意見書を出しました。 願書提出のきっかけとなったのは、同月25日の慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任(こちら)に伴う不安でした。 <ヒロ> ●慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任に伴う会津藩の不安 会津藩は、これまでも、守護職再任について、容保の病を理由に抵抗してきました。もちろん、容保の病は事実なのですが、再任に抵抗してきた大きな理由は国力疲弊でした。ところが、抵抗はしながらも、会津藩には再任は遁れられないものと覚悟していた節がありました(注1)。 ところが、今回、会津藩が再任辞退の願書を出すことになったのは、以下のように、3月25日に一橋慶喜が禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任したことに不安を感じたからでした。
そこで、幕府から正式な復職の沙汰が下る前に、容保の病を理由に辞退し、帰国した上で、国力を養い、時節を待って再び「誠忠」を尽くそうということになり、公用方から、容保に意見を具申したところ、「至極可然」と同意したので、願書を提出に至りました。このとき、容保は、願書を出すからには「存分尽力周旋」し、「是非是非仕取ニ相成候様可致旨」命じたそうです(『会津藩庁記録』四p333-334)。今回は、かなり本気です。 ●禁裏守衛総督と京都守護職の関係 当時の書簡から、在京会津藩は、禁裏守衛総督が守護職の「上官」にあたるポストだという意識をもっていたことがわかります(注4)
参考:『会津藩庁記録』四p332-334、444-445、『京都守護職始末』2p38-39(2010/10/3) 関連■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭問題・春嶽の守護職就任問題」 ■ ■春嶽の守護職辞任問題 【京】元治元年3月28日、中川宮は、越前藩士中根雪江の入説によって、春嶽の辞職反対を断念しましたが、引続いての滞京を強く求めました。中根は、他諸侯にも滞京が命じられればら、春嶽も朝命を奉じるだろうと答えました。 ○春嶽の辞任問題 中根雪江は中川宮を訪ねました。そのときのやりとりはこんな感じです。
○御所外講九門警備問題
<ヒロ> ●御所外講九門警備 慶喜の要請には、九門警備に諸侯がいることで、その関係者が公卿と接近し、朝議に影響力を及ぼすことを警戒している面もあるのではないかと思います。両者の発言から、この時点で「疎暴の論」を唱える藩(因幡・備前など)は、九門の警衛から外れているようです。つまり、慶喜は長州シンパだけではなく、諸藩一般を九門警衛から締め出したかったのではないか、と思います。 ちょっと思い出すのが、文久3年5月20日に朔平門外の変(姉公路公望暗殺)直後に、守護職(当時)の会津藩が、九門警備の独占を願い出た件です(こちら)。 両者、同じような発想ですよね。 参考:『続再夢紀事』三p69-72(2010/10/3,16) 関連■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭問題・春嶽の守護職就任問題」■テーマ別文久3「御所九門・六門警備」/元治1「御所九門・六門警備」■幕末豆知識「御所の九門・六門」 ■参豫諸侯の帰国 【京】元治元年3月28日、長岡良之助は伊達宗城を訪ね、諸侯の周旋はやめて幕府に任せ、中川宮・近衛家への守衛兵を残して藩主は帰国(緊急時は速やかに上京)するようにしたいと相談しました。宗城は、これに同意し、久光とも打ち合わせることになりました(春嶽とは打ち合わせ済のため)。 宗城は、この間から、長岡には、慶喜に「憤発」するよう勧めてほしいと言って置いたそうです。この日、宗城を訪ねてきた長岡は<何分思うようには参りかねます。「幕府御政務之儀」も「実に 安因循」で、とても力に及ばず、うかうかしておれば、進退がどうにもならぬことになるでしょう。このたび、「両地一橋総督にも被命候儀、最早、(諸侯が)銘々周旋ハ相止、幕へ為任奉り、早々主人主人ハ帰国、跡、尹宮・陽明殿(ママ)抔御方守衛之家来残置可然。何れ事端開可申、其時、速ニはせのほり可申、其時之儀ハ同意之兄ハ申談、不致違背候有之度」という趣旨のことを話したそうです。 宗城は長岡に「素より同意」でした。前日に春嶽とは「談合済」であったため、薩摩藩邸に両人で赴き、相談することを約束しました。 <ヒロ> ○前日の春嶽との「談合」 越前藩の記録(『続再夢紀事』)によれば、前日、宗城は越前藩士中根雪江を呼び出し、近衛前関白・中川宮が慶喜への懸念を理由に春嶽の守護職留任を望んでいることを知らせました。中根が、長岡良之助から聞いた話(中川宮が辞任を許容)を伝えると、宗城も、それなら辞任に同意しようと述べていました。帰国の件については触れられていないのですが、その際に、「談合」したということでしょうか。 この日、中根は、辞職を許容する代わりに滞京を求める中川宮に対し、「滞京の事は如何様とも仕るへけれと、仮令朝命にても春嶽一人にてハ御用を弁すへきにあらさる故、自然尚滞在仕る事なれハ他の諸侯をも同様に御沙汰在らせらるる様に」(『続再夢紀事』)と申し入れていましたが、裏を返せば、他諸侯が残らなければ帰りますよ、ってことになります。前日に宗城との間で一斉帰国を「談合済」だったとすれば、上の発言は伏線をはってることになりますね。なんか、ちょっと、ずるっこい・・・(笑)。 参考:『伊達宗城在京日記』p401-402(2010/10/4) 【京】宗城・久光、中川宮邸集会(『伊』p400-402) 【京】将軍家茂、近侍を派遣して宗城・久光に物を賜う 【長州藩】藩主毛利敬親、家老・末家の入京を朝幕に請う。また、三条実美らの復職・藩主父子いずれかの上京を朝廷に請う(『維』五) 【外国】横浜鎖港交渉使節、ナポレオン三世に謁する。(『維』五) |
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