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文久4年1月27日(1864年3月5日)
【京】将軍家茂、在京諸侯の面前で宸翰(詔書)を受取る
(実は草稿は薩摩藩)/天皇、総裁職直克・老中に参豫諸侯との協力を諭す/
山陵補修の功により、将軍家茂に位階昇進(従一位宣下)の内旨/

■将軍家茂への宸翰(詔書)
【京】文久4年1月27日(1864年3月5日)将軍家茂は在京諸侯とともに参内し、小御所において、諸侯の面前で、長州必罰、攘夷のための幕府・諸藩の武備充実、公武一和(幕府・諸藩と朝廷)による天下一新の宸翰(詔書)を受け取りました。宸翰は諸侯にも順次回されました。

その後、天皇は将軍を再び召しだして酒等を振舞い、また総裁職・老中を召し出して、参豫諸侯と協力して議論し、「皇運挽回」に尽力するよう命じました

宸翰の大意は以下のとおり。(通し番号は仮)

(1) 日本の「武威」は「外寇」の「制圧」「武威」には不十分であり、「妄に膺懲(ようちょう)の典を挙ん」とすれば、「却て国家不測の禍に陥らん事を恐」れる。そこで、幕府は外には旧典を改め、諸大名の参勤を緩め、妻子を帰国させ、武備充実を命じよ。また、内には諸役の冗員を省き、入費を減らし、砲艦を整備せよ。
(2) (三条)実美等は「鄙野の匹夫の暴説を信用し、宇内(=国内)の形勢を察せず、国家の危殆を思わず、・・・朕が命を矯めて軽率に攘夷の令を布告し、妄りに討幕の師(=戦争)を興(おこ)さんと」とした。また、「長門宰相(=長州藩藩主毛利敬親)の暴臣のごとき」は、「其主を愚弄し、故なきに夷船を砲撃し、幕吏を暗殺し、私に実美らを本国に誘引」した。このような「狂暴の輩」は「必罰」せねばならない。しかし、これは皆「朕が不徳の致す処」であり、「実に慙愧に堪え」ない。
(3) 我が方の砲艦は「国威を海外に顕す」には不十分であり、却て「洋夷の軽侮」を受けている。そこで、「天下の全力」を以て摂海(大阪湾沿岸)膺懲の防備を整え、「列藩の力」を以て各地の「要港」の防備を整え、軍艦数隻を整備して「無餒の醜夷し」を征討せよ。将軍・諸大名は「力を同うし、心を専らにし」、征討の備えを精鋭にし、武臣の職掌をつくせ。
(4) 「汝将軍及各国の大小名」は「皆朕が赤子」である。「天下の事」を「朕と共に一新」せよ。
(参考:『玉里島津家史料』三p161-162採録の宸翰。素人なので資料として使わないでね)

<ヒロ>
●薩摩藩の裏工作
去る21日の宸翰(「内諭」)(こちら)も薩摩藩の起草によるものでしたが、この宸翰も同様、薩摩藩によって起草されたものでした!ほぼ同内容の草稿が『玉里島津家史料』三p172-173に採録されているのです。前回に引続き、黒幕してますねー。

宸翰の長州藩への厳しい文言なども薩摩藩の草稿と同じで、これで、長州処分の方向性は決まってしまいます。

なお、宸翰を見た慶喜はその文章に「開国の意味」が含まれると違和感を感じて、宸翰が出された経緯を調べ始め、二度の宸翰が薩摩藩によって起草されて、密かに朝廷に提出されたものであることを探り当てます・・・(こちら

もっとも、文久3年11月に久光に下した密勅21条(こちら)にあるように、孝明天皇自身、これまで「暴激私情のみ」の三条実美ら七卿や長州藩の過激な言動に怒りを示していますし、攘夷についても、「武備不充実」の「無理之戦争」は忌避して「安慮之攘夷」を求めています。薩摩藩としては天皇の意向に沿った草稿だったといえると思います。

<おまけ:宸翰草稿の削除部分>
27日宸翰の草稿(下書き)には打ち消し線があり、起草段階での推敲の跡がうかがえます。そのうち特に面白いと思うのが、長州藩に関する部分です。宸翰では「長門宰相の暴臣」の非が鳴らされていますが、草稿のはじめの段階では「長門宰相の父子(暴臣)のごとき家臣の凶暴を制すること能わず・・・今に至るまで謝罪の言を聞かず・・・」(打ち消し部分が草稿内で削除された部分で、()内が追加された部分です)と、長州藩主父子の非を問う文面になっていたのです!そのままでは追い詰められた長州藩の暴発を招く危険があるから自主削除したんでしょうか?

●参豫の幕政参加
孝明天皇は、 1月21日に将軍に下した宸翰(内諭)にて、参豫諸候(容保・春嶽・容堂・宗城・久光)の具体名を挙げ、彼らと協力するようと命じていました(こちら)、この日(27日)の宸翰には、詔書という性格だからなのか、具体的な実名を挙げて協力を求める内容は含まれていませんでした。そのかわり、総裁職・老中に、直接、諭して、念を押したのでしょうか。

この日、天皇から直接念押しされた老中らの反応は、1月28日の「今日」で。

関連: ■テーマ別元治1 「将軍への二度の宸翰」 「参豫の幕政参加問題「横浜鎖港問題(元治1)」 「長州・七卿処分問題(元治1)」  「長州藩の東上(進発論VS慎重論)」 

■家茂の位階昇進
【京】同日、宸翰付与に先立ち、荒廃していた山陵(歴代天皇の陵墓)の探索・修復を行ったのは将軍の朝廷尊奉の志厚さのゆえであるとの叡感(天皇の感想)があり、従一位宣下の内旨が伝えられました

<位階昇進をめぐる動き>
将軍参内時に内旨があることは、去る25日、近衛前関白から一橋慶喜・松平春嶽・伊達宗城に伝えられていました(こちら)。翌26日、中川宮は、一橋家用人を呼び出し、将軍の位階昇進は山陵修復の功によるものであると明らかにした上で、他の者にも褒賞を与えるので将軍が辞退せぬよう周旋を求めていました。幕府は、右大臣に昇進したばかりの将軍への従一位宣下は過当と考え、宣下を辞退するつもりでしたが、天皇が辞退を許さず、位階昇進を請けることになりました。

<山陵修復>
山陵の修復は実際は、山陵奉行に任命された戸田大和守(忠至、宇都宮藩支族)によって行われています。戸田は宇都宮藩主戸田忠恕を通して山陵修復を幕府に建議して、その任についていました(山陵奉行自体がこのときに朝命で新設されたポストです)。山陵修復の功により、将軍への従一位宣下と同時期に、戸田大和守は大名格に列せられます。のちに管理人イチオシの御陵衛士を預かることになったのがこの戸田大和守で、朝廷からの評価はとても高い人物でした。

関連:■テーマ別元治1「将軍の再上洛(元治1)」 

参考:『続再夢紀事』ニp378-382、『玉里島津家史料』三p172-173、『伊達宗城在京日記』p320-321、『島津久光公実紀』ニ、『幕末政治と薩摩藩』、『維新史料綱要』五(2010/3/2)
関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊

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