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文久3年3月29日(1863.5.16)
【京】容保、八幡・山崎に関門修築の意見書を提出/
幕府、清水家附420名を守護職配下に。

■京都守衛
【京】文久3年3月29日、京都守護職松平容保は、二条城に登城し、八幡・山崎に関門を修築せよとの意見書を幕府に提出しました。

<この度、八幡山崎の関門修築を命じられたが、近年西洋の方法は日々新しくなっており、従来の古い方法だけでは不十分である。兼て心得のある者、勝麟太郎(勝海舟)へ総裁を命じ、ほかに右両人(藤堂家家臣の広瀬玄恭と京都医師の栗原唯一)を雇用するよう命じてほしい。当方の家来にも心得のある者がおり、差し出すつもりである。右の段、申上げる。以上。

   松平肥後守

但し、麟太郎は御用繁多で、先日承ったところ、通して取組むことは不可能ということだが、本文の通り命じられ、時々見回る等にしてほしい。

一、攻守の道は分数を立て要害の場に寄ることを第一とするが、京都の形状は連山が四方にあり、自然の城郭となっており、要害である。只、山崎は追手門同様の場所で、両山の間は頗る平坦、且つ水路も通り、最も手薄なので、修築せねばならない。全築城製のように、両山から土手石垣を築出し、表には堀を設け、川の両側には見附門のようなものを築造し、それぞれ常の法度を設置し、攻守については諸侯へ然るべく警衛を命じれば、自ずと洛内の築地(=御所)守衛も成立し、守を遠くする遺法にも適合する。また、洛内の築地を守衛するに、その地のみの警衛としては却って行き届き難く、前文の理由もあり、修築したいと考えている>(『七年史』意訳by管理人。引用は原文にあたってね)。

幕府はこの意見を容れ、容保に修築の指揮監督をせよと命じたので、容保は藩士野村左兵衛・松坂三内・中沢帯刀らに担当を命じました。

【京】文久3年3月29日、幕府は御三卿清水家付の幕臣420人を守護職の支配下に置きました。

しかし、『七年史』によれば、「柔弱にして用ふべきの地なし」だったそうです^^;。
参考:『七年史』2004.5.16

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