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文久3年3月30日(1863.5.17)
【京】幕府、長州藩の兵庫警衛を免除。
諸藩の京都口警衛場所を定める

■京都・摂海守衛
【京】文久3年3月30日、幕府は長州藩の兵庫西宮守衛を免じ、対馬守衛に遺漏ないようにと命じました。また、京都口警衛の担当藩を定めました

文久3年3月30日布令の兵庫西宮・京都口の守衛担当藩(紫字は親藩・譜代)
兵庫西宮 毛利敬親(長州藩)→松平三河守(作州津山藩・松平斉民)・有馬中務大輔(筑後久留米藩・有馬頼永)・中川修理大夫(豊後岡藩主・中川久昭)
京都口
・山崎辺

松平甲斐守(郡山藩主・柳沢保申(やすのぶ))
・八幡辺 阿部主計頭(備後福山藩主・阿部正桓(まさたけ))
・枚方辺 永井飛騨守(高槻藩主・永井直矢(なおつら))
・淀街道・洞ヶ峠辺・渚八幡の間 稲葉長門守(淀藩主・稲葉正邦)
・竹田街道より伏見辺 加藤越中守(水口藩主・加藤明軌(あきのり))
・伏見街道より宇治辺 戸田采女正(大垣藩主・戸田氏彬)
・下鴨より大原郷辺 仙石讃岐守(丹波出石藩主・仙石久利)
・朱雀口より老ヶ坂辺 織田山城守(丹波柏原藩主・織田信民)・九鬼大隈守(三田藩主・九鬼隆義(くき・たかよし))
・粟田口、北白川、逢坂山辺 本多主膳正(膳所藩主・本多康穣(やすしげ))

○長州藩の兵庫警衛免除
これは、長州藩の運動の成果でした。長州藩内には、朝議で破約攘夷が確定したので、京都を去って自国及び対馬の防禦に専念すべきとの意見があり、2月28日、世子毛利定広は藩士小幡彦七を政事総裁職松平春嶽に派遣して帰国を内願し、賀茂行幸後の3月17日には帰国を朝廷に願い出ました。同月24日、伝奏は、長州藩に、支藩の吉川経幹を呼び寄せて兵庫警衛を託した上で帰国せよとの沙汰を伝えました。翌々日(26日)、定広は、藩士清水清太郎・小幡彦七・佐々木男也を老中板倉勝静に派遣し、兵庫警衛免除の諒解を請わせました。その結果が、この日の幕命となったようです。

参考:『七年史』一・『修丁防長回天史』・『維新史』・『明治維新人物辞典』(2004.5.17)

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