5月の幕末京都 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索 HPトップ
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■京都・摂海守衛 【京】文久3年3月30日、幕府は長州藩の兵庫西宮守衛を免じ、対馬守衛に遺漏ないようにと命じました。また、京都口警衛の担当藩を定めました 文久3年3月30日布令の兵庫西宮・京都口の守衛担当藩(紫字は親藩・譜代)
○長州藩の兵庫警衛免除 これは、長州藩の運動の成果でした。長州藩内には、朝議で破約攘夷が確定したので、京都を去って自国及び対馬の防禦に専念すべきとの意見があり、2月28日、世子毛利定広は藩士小幡彦七を政事総裁職松平春嶽に派遣して帰国を内願し、賀茂行幸後の3月17日には帰国を朝廷に願い出ました。同月24日、伝奏は、長州藩に、支藩の吉川経幹を呼び寄せて兵庫警衛を託した上で帰国せよとの沙汰を伝えました。翌々日(26日)、定広は、藩士清水清太郎・小幡彦七・佐々木男也を老中板倉勝静に派遣し、兵庫警衛免除の諒解を請わせました。その結果が、この日の幕命となったようです。 参考:『七年史』一・『修丁防長回天史』・『維新史』・『明治維新人物辞典』(2004.5.17) |
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