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文久3年3月28日(1863.5.15)
【京】石清水行幸:町奉行、冗費を省くように布達
【京】前関白近衛忠煕、久光に上京を促す
【江】東帰浪士組、江戸に到着。

■石清水行幸
【京】文久3年3月28日、町奉行(永井尚志)は石清水行幸では冗費を省くように洛内外に布令しました。

「今度、石清水行幸は攘夷の御祈誓思召にて、全万民の憂を救わせられ候、御趣意に在らせられ候間、通御の御道、下々損傷に相成候ては、宸襟悩まされ候間、梢々質素に相心得申すべき所、よんどころ無き義は格別に候えども、決して修繕費用相立て候儀、之無き様致すべく候。自然厳重虚飾に相成り候ては、叡慮貫徹に相成らず、折角御仁愛の思召も、相省き候間、此の旨、きっと相心得申すべし」

伝奏からの指示でした。(所司代牧野忠恭は、守護職松平容保に、心得のためとして、布達の中身を報せています)。

関連:■開国開城「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別文久3年:「賀茂・石清水行幸と攘夷親征」2000.5.16

■久光召命
【京】文久3年3月28日、近衛前関白父子は、久光に書を送り、上京を促しました。

書簡の概容は以下の通り(箇条書きは管理人)
其許が今回御上京になれば、(天皇は)昨年の叡決通り、守護職をお命じになる思召だった。ところが「邪魔」が入り、(実現しなかったことに)酷く御心を痛められおられた。
最近になって、「慕(暴)激之堂上」も温和な至当の論を述べるようになり、「就中慕(暴)激之人体」は朝廷を去ったので、少しは「安心」である
方今、忠煕は人望を失っており、何事を申し出ても、人々は応じない。内覧も「誠ニ有名無実」で、何事も仰せ出された後から承知するという状況である。これでは務めが果たせず、その上持病もあるので、内覧の辞表を提出したところ、一昨夜、辞任が聞き届けられた。今後は、もはや「天下之形勢」がどうなるかと案じ、傍観するのみである。
其許は、「昨年格別之御忠節」を立てられたので、きっと「御賞」があると存じるが、これもどうなることか。もはや役人ではないので、ただ傍観するだけである。
朝廷にて「慕(暴)ハ少し退」いた事であり、この上は、何卒、「朝憲相立候様御上京御周旋御忠節相立候様」申し入れたい。
<追伸>
先日、大樹公(=将軍家茂)に「御届捨」で帰府の様子があり、「誠ニ大混雑」した。(天皇が将軍に)参内を命じられ、滞在するよう御沙汰になったところ、(将軍は)お請けになった(=滞在することになった)。大樹公帰府ともなれば、目下、「御一和」
(管理人は素人なので資料として使わないでね)

参考:『玉里島津家史料』二p285(2012/4/19)

■東帰浪士
【江】文久3年3月28日、東帰浪士が、中仙道を経て、江戸に到着しました。

<おさらい>
浪士組は2月23日に入京しましたが、生麦事件償金問題で関東の情勢が切迫しているのを受け、2月30日頃に将軍の早期帰府と江戸防衛指揮とともに、浪士銘々の東帰と攘夷先鋒を務めることを建言しました(こちら)。幕府は3月1日に浪士組東帰を決定し、同月3日には、浪士組に横浜での開戦に備えての東帰が命じられました(こちら)。彼らは、将軍東帰までの滞京を主張する芹沢鴨・近藤勇ら一部の浪士を残し(こちら)、13日に京都を出立していました(こちら)。一説に、16日、浪士取締役並出役速見又四郎は長州藩士某の清河八郎宛密書(4月15日をもって江戸と横浜を焼打にして京都へ上り、京都浪士と心を合わせ、長州と一手になり二条城に討ち入るという計画)を入手しており、滞京中の老中に報せたといいます(こちら)

関連:■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館)2000.5.16、2004.5.16

【京】近衛忠房、久光に書を送り、上京を促す(『玉里島津家史料』ニp216)

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