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元治1年4月12日(1864年5月17日)
【京】佐久間象山、慶喜に謁し、建策。
【京】備前藩主池田茂政退京。
【江】留守老中、京への書にて、水戸藩の鎖港断行の建議を採用せぬよう重ねて要請

☆京都のお天気:晴(久光の日記より)
■禁裏守衛総督・摂海防御指揮

【京】元治元年4月12日、海陸備向勝手附雇の佐久間象山が、禁裏守衛総督・摂海防御指揮の一橋慶喜に謁し、諮問に答えて時務策を述べました。

<ヒロ>
このときの内容は勉強不足でわかりませんが、象山が14日に慶喜に提出した上書には、洋式築城に精通する者の登用、京都・五畿内の分間図の作成などが記されているそうです。

【京】同日、慶喜の弟である備前藩主池田茂政が退京し、帰国の途につきました。

参考:『維新史料綱要』五、『徳川慶喜公伝』3p33(2010/10/11)
関連:■テーマ別元治1「慶喜の後見職辞職/総督・指揮職就任」

■天狗党争乱:幕府&水戸藩の動き
【江】元治元年4月12日、留守老中は再び在京老中に密書を送り、「水戸殿家来浮浪之徒騒立一件」にいまだ鎮静の様子がないことを知らせ、水戸藩主徳川慶篤の度々の横浜鎖港断行の要求につき、京都から「見合候様書取」を下すよう要請しました。また、慶篤の建言を採用せぬよう改めて求めました。


書簡別段にて、在京老中は、慶篤の願い通りになれば「以之外御不為御座候」とし、この密書の趣意(自分たちの意見)を「必御採用相願候」と懇願しています。さらに、水戸藩出身で慶篤の実弟である慶喜が評議を主導することを恐れているようで、力を尽して水戸藩の建議の採用を拒むよう、念のため申し添えています(「水戸殿より何と被仰立候哉難計、一橋殿御主張専に御座候ては不相成、其節は御尽力御拒可被成候、念為申上置候」)。

参考:『水戸藩史料』下p586-587

<ヒロ>
留守老中は、同月10日の第一報においても、水戸藩の建議を採用せぬよう求めています(こちら)。

なお、この日、幕府、松代藩・掛川藩・延岡藩・大多喜藩に命じて、天狗党の横浜乱入に備えさせており、横浜鎖港をめぐって緊張が高まっていたようです。

参考:『水戸藩史料』下584-586(2010/10/10)
関連:■水戸藩かけあし事件簿■テーマ別元治1「横浜鎖港問題(元治1)」水戸藩・天狗争乱(元治1)」■おすすめサイト:「水戸学・水戸幕末争乱(天狗党の乱)

【京】備前藩主池田茂政、帰国のため退京。(15日帰城) (『玉』ニ、『維』五)
【江】幕府、松代藩・掛川藩・延岡藩・大多喜藩に命じ、常陸・下野付近に屯集の徒(天狗党)の横浜乱入に備えさせる。(『維』五)
老中有馬道純罷免

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