5月の幕末京都 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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☆京都のお天気:晴(久光の日記より) ■旧参豫諸侯の帰国 【京】元治元年4月10日、松平春嶽・伊達宗城・池田茂政(備前藩主)・長岡良之助(肥後藩主弟)が二条城に登城し、将軍に暇の挨拶をしました。将軍は各自に刀剣を与えて滞京中の労を賞しました。 同日、朝廷は宗城の公武周旋の功を賞し、従四位上・左近衛権少将に叙任しました。 関連■テーマ別元治1「参豫諸侯の帰国」 参考:『続再夢紀事』三p75-77, 『伊達宗城在京日記』p403-404(2010/10/10) ■横浜鎖港問題&長州処分 【京】元治元年4月10日、近衛邸に春嶽・宗城・久光・長岡良之助(肥後藩主弟)・有馬慶頼(久留米藩主)が集まり、懇談しました。席上、長州藩主父子から上京願及び七卿帰京復職要請が出されたこと、議奏が急速な横浜鎖港を主張していることが話題になりました。 中川宮の内話によれば、「此頃、又々議奏辺暴論ニなり、早々鎖港不相成候而ハ人心居合不申」と主張しているとか。また、久光が山階宮から聞いた話では「議奏之議論、此後手続(注1)ヲ申候事」でした。話し合った結果、長岡良之助が参内して、正親町三条実愛(議奏)に対し、未だに朝命を奉じて末家・家老が上坂していないので藩主父子の上京は「不可然」であり、七卿の復職も無理である理由を説明することになりました。 (注1)朝命通りの末家・家老の上坂か、長州藩の望む藩主父子の上京かという手続きを指すと思われます。 <ヒロ> 水戸・因幡・備前あたりの入説の影響なのでしょうか? 関連■テーマ別元治1「横浜鎖港問題(元治1)」 「長州・七卿処分問題(元治1)」 参考:『伊達宗城在京日記』p424(2010/10/10) ■天狗党争乱:幕府&水戸藩の動き 【江】元治元年4月10日、留守老中は在京幕府首脳に書を送り、水戸藩の建言を採用して横浜鎖港問題の幕議を変えることがないよう求めました。 書簡のポイントは以下の通り。(意訳&適当に省略・箇条書きしています)
留守老中は、この後、同月12日、14日にも水戸藩の建議を容れぬよう要請する書簡を在京老中に発しています。 この頃の動きについて、『水戸藩史料』では「慶篤は鋭意鎖港の断行を計り、以て多年の叡旨に奉答し、且つ之を以て内乱を鎮定せんと尽し、攘夷党の発動は前来養成せし結果にて、今さら空しく之を抑制することは到底能はざる所なれども、幕府は徒らに我が藩に向って鎮○を督促するのみにて、鎖港の事に至りては痛く之を拒斥し、頻りに京師に通諜して、水戸より何等の上奏あるも採用す可らずと告げたり」と記しています。
参考:『水戸藩史料』下584-586(2010/10/10) 関連:■水戸藩かけあし事件簿■テーマ別元治1「横浜鎖港問題(元治1)」「水戸藩・天狗争乱(元治1)」 おすすめサイト:「水戸学・水戸幕末争乱(天狗党の乱)」 【江】慶篤、天狗党(筑波勢)説得のため、側用人美濃部又五郎、徒士頭立原朴ニ朗、目付山国兵部らを宇都宮地方に派遣。(『維』五) 【江】佐倉藩主堀田正倫、非常警備の為、江戸来往の藩士の鉄砲所持せを幕府に請う。12日に許可 (『維』五) 【天狗党】筑波勢、東照宮拝観を拒否される(『維』五) 【長州】三条実美・東久世通禧、長州藩主毛利敬親を山口の居館に訪ねる。 (『維』五) |
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