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元治1年4月10日(1864年5月15日)
【京】参豫・諸侯の帰国:春嶽・宗城・池田茂政・長岡良之助、将軍に暇を告げる/宗城、従四位。
【京】近衛邸に春嶽・宗城・久光ら参集。議奏が急速鎖港を主張している件、
長州藩の藩主父子の上京願・七卿帰京復職要請について議す
【江】留守老中、在京老中に書を送り、水戸藩の上奏を採用せぬよう要請

☆京都のお天気:晴(久光の日記より)
■旧参豫諸侯の帰国

【京】元治元年4月10日、松平春嶽・伊達宗城・池田茂政(備前藩主)・長岡良之助(肥後藩主弟)が二条城に登城し、将軍に暇の挨拶をしました。将軍は各自に刀剣を与えて滞京中の労を賞しました。

同日、朝廷は宗城の公武周旋の功を賞し、従四位上・左近衛権少将に叙任しました。

関連■テーマ別元治1「参豫諸侯の帰国
参考:『続再夢紀事』三p75-77, 『伊達宗城在京日記』p403-404(2010/10/10)

■横浜鎖港問題&長州処分
【京】元治元年4月10日、近衛邸に春嶽・宗城・久光・長岡良之助(肥後藩主弟)・有馬慶頼(久留米藩主)が集まり、懇談しました。席上、長州藩主父子から上京願及び七卿帰京復職要請が出されたこと、議奏が急速な横浜鎖港を主張していることが話題になりました。

中川宮の内話によれば、「此頃、又々議奏辺暴論ニなり、早々鎖港不相成候而ハ人心居合不申」と主張しているとか。また、久光が山階宮から聞いた話では「議奏之議論、此後手続(注1)ヲ申候事」でした。話し合った結果、長岡良之助が参内して、正親町三条実愛(議奏)に対し、未だに朝命を奉じて末家・家老が上坂していないので藩主父子の上京は「不可然」であり、七卿の復職も無理である理由を説明することになりました。

(注1)朝命通りの末家・家老の上坂か、長州藩の望む藩主父子の上京かという手続きを指すと思われます。

<ヒロ>
水戸・因幡・備前あたりの入説の影響なのでしょうか?

関連■テーマ別元治1「横浜鎖港問題(元治1)」 「長州・七卿処分問題(元治1)」
参考:『伊達宗城在京日記』p424(2010/10/10)

■天狗党争乱:幕府&水戸藩の動き
【江】元治元年4月10日、留守老中は在京幕府首脳に書を送り、水戸藩の建言を採用して横浜鎖港問題の幕議を変えることがないよう求めました。


書簡のポイントは以下の通り。(意訳&適当に省略・箇条書きしています)
9日に水戸殿(=水戸藩主徳川慶篤)が登城され、前件を相談した。昨8日の御挨拶の趣意は、「先年之攘夷之勅諚」(注1)を奉じ、「今般之叡慮」(注2)は取らぬようにとのこと。幕府が横浜鎖港を断行せねば(天狗党が)同港に暴発する可能性があるので、鎖港断行がなければ鎮静の手段はないとのお話をされるだけであった。
同日、武田伊賀守(水戸藩執政武田耕雲斎)も登城した。激徒共が如何に切迫しようとも、(鎖港については、交渉使節を送るという)今般の宸翰請書(注3)に基づいて取り計らうしかないので、激徒の鎮静を厳しく断じた。(耕雲斎は)言葉を屈しただけで、別段の見込も申さず、松平大炊頭殿が鎮静のため宇都宮に発足すること、一通りの方法では鎮静しがたく、攘夷期限等をもって諭さねば困難であると申した。これまた拙者共には指図できず、前文の叡慮に触れる処置はし難いと答えておいた。
水戸殿から京都へ建白があると思われるので、御含みいただきたい。
一橋殿から水戸殿に「厳重之御垂戒」もあれば「鎮静かた相成可申」と存ずる。御含みの上、早々に御評議願いたい。。
今後の動静によっては、どのような形勢に変じるかも計りがたい。「勢窮事急」の件は、一々京都へ伺い、御指図を待っていては、「彼之勢気は益増張」しよう。今後の模様次第では、「臨機の処置・応変之取計」をし、後から追々申し上げるようにしたい。
万一、「僅一藩之挙(動カ)等より御廟算変動之御評議等御座候ては尤不可然候間、今般之御宸翰に被為基候て、断然御据被為在候様」に願いたい。

留守老中は、この後、同月12日、14日にも水戸藩の建議を容れぬよう要請する書簡を在京老中に発しています。

この頃の動きについて、『水戸藩史料』では「慶篤は鋭意鎖港の断行を計り、以て多年の叡旨に奉答し、且つ之を以て内乱を鎮定せんと尽し、攘夷党の発動は前来養成せし結果にて、今さら空しく之を抑制することは到底能はざる所なれども、幕府は徒らに我が藩に向って鎮○を督促するのみにて、鎖港の事に至りては痛く之を拒斥し、頻りに京師に通諜して、水戸より何等の上奏あるも採用す可らずと告げたり」と記しています。

注1 文久2年11月27日、攘夷別勅使三条実美・姉小路公知が江戸城にて伝宣した攘夷の勅諚のこと(こちら)。攘夷を決定して速やかに諸大名へ布告すること、策略は衆議を尽して至当の公論を決めること、攘夷期限を奏上すること等の内容。また、文久3年6月3日、天皇は参内した将軍に対し、速やかに東下して、外夷掃攘の功を遂げ、武威を海外に輝かせよと命じている(こちら
注2 文久4年(元治元年)1月27日の宸翰のこと。長州必罰、攘夷のための幕府・諸藩の武備充実、公武一和による天下一新を命じるもの。三条実美らが「朕が命を矯めて軽率に攘夷の令を布告」し、長州藩が「故なきに夷船を砲撃し」たと断罪しており、軽率な攘夷を戒めている(こちら)
注3 最初の請書は2月14日に将軍が参内して提出したが(こちら)、18日に、別途横浜鎖港の請書を出している。横浜鎖港交渉使節を派遣しているので鎖港は実現する見込みであり、それまでは武備充実に努めるとの内容(こちら)。

参考:『水戸藩史料』下584-586(2010/10/10)
関連:■水戸藩かけあし事件簿■テーマ別元治1「横浜鎖港問題(元治1)」水戸藩・天狗争乱(元治1)
おすすめサイト:「水戸学・水戸幕末争乱(天狗党の乱)

【江】慶篤、天狗党(筑波勢)説得のため、側用人美濃部又五郎、徒士頭立原朴ニ朗、目付山国兵部らを宇都宮地方に派遣。(『維』五)
【江】佐倉藩主堀田正倫、非常警備の為、江戸来往の藩士の鉄砲所持せを幕府に請う。12日に許可 (『維』五)
【天狗党】筑波勢、東照宮拝観を拒否される(『維』五)
【長州】三条実美・東久世通禧、長州藩主毛利敬親を山口の居館に訪ねる。 (『維』五)

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