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文久3年4月4日(1863年5月21日) 
【京】残留浪士、精忠浪士と記される
(&伊東甲子太郎の号「誠斎」)

■残留浪士
【京】
文久3年4月4日、上洛中の井上松五郎が精忠浪士(=壬生浪士)を訪れました。(『井上松五郎日記』)

<ヒロ>
精忠=誠忠です。この字は新選組の騎馬提灯にも記されていたといいます。井上松五郎の日記の文久3年4月3日には壬生浪士と記されており、4日に精忠浪士という記述があるところから、彼らが一時、「精忠浪士」と名乗ったという見方もあります。しかし4月8日・10日などの日記ではまた壬生浪士となっていて、定着せずに終わったようです。(豆知識「隊名の変遷」参照

ところで、一般に、「誠忠」は近藤・土方の専売特許のようにされていて、「徳川に誠を尽くす近藤・土方」というイメージづくりに使われていると思います。ところが、実は、「誠忠」は、この時期の彼らの最大実力者、芹沢鴨が洗礼を受けた水戸学にとって、基本概念なのです。わたしは、この「誠」はもともとは芹沢からでたものではないかと思っています。尊王敬幕な水戸学の誠忠は、この場合、天皇に対するものなのですが・・・。(近藤だって、尊王攘夷を標榜しているのだから、朝廷への「誠忠」に疑義はさしはさまなかったと思いますが、天領出身者ゆえに幕府への「誠忠」もあったでしょうね)。

それを考えると、残留浪士の方向性を明確にするともいえる「精忠」浪士ではなく、地名をとっただけの無難な「壬生」浪士が定着していったという点も、なにか、意味があったのかも・・・路線対立のようなものがあったのかもしれませんネ。

あまり誰も疑問視しない新選組の「誠」ですけれど、本来は誰に対しての誠なのか、それがどう変容していったのか(しなかったのか)に思いをめぐらすのも面白いかもしれませんよね。

●伊東甲子太郎の号の「誠」
ちなみに、伊東甲子太郎の号は「誠」斎です。あまり知られていないと思いますが、御陵のある泉涌寺塔中戒光寺の、生き残りの同志が建立した墓碑に「誠斎伊東甲子太郎」と刻まれていて、わかるのです。同志が、この号を、伊東の生き様を象徴するものとして、後世まで伝えたいと思っていたことがうかがわれると思います。

管理人は、伊東にとっての「誠」は朝廷への「忠」であり、「至」(=真心)だったと思います。(伊東の歌集を読むと「まごころ」が彼にとって大切なものだったことがよくわかります。真心自体は国学(本居宣長)からきていると思いますけれど)。伊東が新選組への入隊を決めたのも、新選組のスローガンである「誠」を知ったとき、目指すものが一緒だと判断した(誤解した)のもあったのかもしれませんよネ。

史料をきちんと読みもしないで、伊東を毛嫌いして「変節者」と罵倒する人達も多いけど、伊東が「誠」を大切にした人物だということを理解してほしいなぁ・・・。

<参考>『新選組日誌上』収録の関連史料(新人物往来社)

関連:■開国開城:「天誅と幕府/守護職の浪士対策」■テーマ別文久3年:「浪士対策」■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館)(2001.5.21)

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