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文久3年4月3日(1863年5月20日)
【京】親兵設置(7)三条実美、京都御守衛御用掛就任
【京】幕府、同年の京都守衛諸侯及び警衛担当時期を通達。
【京】諸大名の参勤は京都・江戸折半にするようにとの朝旨。
【京】長州藩世子毛利定広、将軍に帰国の挨拶

■親兵設置
【京】文久3年4月3日、朝廷は京都御守衛御用掛に三条実美を任命しました。

幕府は、十万石以上の諸侯にこのことを通達しました。

<ヒロ>
京都御守衛御用掛は先に設置が決まった御守衛兵(親兵)の朝廷側責任者です。このとき三条実美(さんじょう・さねとみ)は27歳(数え)。文久2年12月に攘夷決行・親兵設置の勅命伝達の別勅使として東下するなど、尊攘激派公卿として頭角をあらわしていました。長州藩と連携して活動しており、会・薩ら公武合体派が起こしたクーデター(禁門の政変)では都落ちをし、長州に下向することになります。

参考:『徳川慶喜公伝』2(2001.5.20)

■京都守衛
【京】文久3年4月3日、幕府は、同年の京都守衛諸侯及び警衛担当時期を通達しました。

4月〜
6月
上杉弾正大弼(出羽米沢藩主・上杉斉憲)、奥平大膳大夫(豊前中津藩主・奥平昌服)、安芸守名代松平紀伊守(芸州広島藩主世子・浅野茂勲)
7月〜
9月
加賀中納言(金沢藩主・前田利鬯(としか) )、南部美濃守(盛岡藩主・南部利剛(としひさ))、松平備前守(岡山藩主・池田茂政(もちまさ))
10月〜12月 立花飛騨守(柳川藩主・立花鑑寛(あきとも))、丹羽左京大夫(二本松藩主・丹羽長国)、戸田采女正(大垣藩主・戸田氏彬)

<ヒロ>
京都守衛諸侯と京都守護職会津藩の指揮系統はこの時点では、どうも不明確なようです。この時点では、会津藩の理想である将軍による京都直接警衛が実現しているので、会津藩も気にしなかったのでしょうか・・・。

参考:『七年史』(2004.5.21)

■参勤交代
【京】文久3年4月3日、三条実美は、伝奏野宮定功とともに、将軍後見職一橋慶喜に対し、諸大名の参勤は京都・江戸折半にするようにとの叡旨であるとの朝旨を伝えました。

<ヒロ>
ここで、伝奏とともに三条実美が出てきたのは、京都御守衛御用掛としてではないかと思います。三条らのいう「叡旨」は孝明天皇の考えと違うことがままあり、また、孝明天皇の与り知らぬものである場合もありますが、この件もどうなのでしょうか。もし、わかれば、補足しますね。

関連:テーマ別文久2年「幕政改革
参考:『七年史』(2004.5.21)

■長州藩
【京】文久3年4月3日、長州藩世子毛利定広は、帰国の挨拶に二条城に登りました。

定広は将軍家茂に謁した際に、将軍が摂海防禦を指揮することを進言し、また、対馬防禦のために長州藩に軍艦兵器を貸付けてほしいと求めました。

参考:『修訂防長回天史(三下)』(2004.5.23)

関連:■「開国開城」:第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題 ■テーマ別文久3年「親兵設置問題

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