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文久2年4月27日(1862.5.23)
寺田屋事件後:薩摩藩、田中河内介父子・海賀宮門らを
海路薩摩藩へ護送。(→斬殺)

■寺田屋事件後
文久2年4月27日、薩摩藩は寺田屋事件の中心人物の田中河内介父子・海賀宮門らを海路薩摩藩へ護送しました。

島津久光は、側役大久保利通(一蔵)らと挙兵組の藩士・浪士の処分を相談した結果、大山巌・西郷従道ら薩摩藩士22名は薩摩本国へ送還し、真木和泉ら諸藩士はそれぞれの藩に引き渡すことにしました。引渡し先のない田中河内介(元中山家家臣)父子・千葉郁太郎・中村主計・海賀宮門については、薩摩藩士とともに薩摩へ送還することになりました。彼らは27日、海路、大坂を出発しました。

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彼らは薩摩藩に匿われることはありませんでした。たどり着くこともなかったのです。田中父子は5月1日(推定)、船中で薩摩藩士に斬殺され、遺骸は海に投げ捨てられました。5月2日に小豆島に漂着した遺骸の検分書によれば、二人の身体は後ろ手に縄を掛けられ、足かせをかけられていたそうです。また、千葉・中村・海賀の3名は、5月4日、上陸地点の日向細島で薩摩藩士に斬殺されました。海賀は秋月藩出身でしたが、薩摩には知人が多いからと、秋月送還を辞しての薩摩行きだったそうです。刀を抜いて抵抗したものの、木に縛られて殺害されたといわれています。

殺害の理由は、田中らを薩摩藩に送還すれば、藩内でどのような騒ぎを起こすかわからないと懸念されたからだといわれています(『殉難録稿』・『維新史』など)。久光の内命があったともいい(『殉難録稿』)、藩の要路の内命だったともいいます(『維新史』)。中山中左衛門の指示だとする証言もあるそうです(『田中河内介』)。公卿中山忠能の元家臣であり、幼少時の明治天皇(中山忠能の孫)の養育も務めた田中らの殺害を、薩摩藩が秘したのはいうまでもありません。

関連:■テーマ別文久2「久光上京と寺田屋事件」■「開国開城」「文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上京と寺田屋事件
参考:『維新史』三・『殉難録稿』・『田中河内介』・『大久保利通日記』(2003.5.23)

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