5月の幕末京都 幕末日誌文久2 テーマ別文久2 HP内検索 HPトップ
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【京】文久2年4月25日、武家伝奏(野宮定功)は島津久光に浪士鎮撫の勅命を伝達しました。『徳川慶喜公伝(孝明天皇紀・岩倉公実記)』によれば、前日、薩摩藩士堀次郎が岩倉具視に対して、<以後の懸念もあるので、王命に違う者は賊とみなすという内命を下してほしい>と要請していたそうで、その要請に応えたものだそうです。(『島津久光と明治維新』では、25日には近衛忠房を通して浪士鎮撫の勅命が下ったことになっています)。 <ヒロ> この勅命に関して、解釈が二通りあります。『島津久光と明治維新』(芳即正著)では、朝廷は、いくら勤王の志士であっても京都で騒動を起こされるのを嫌っており、自国の藩士をも取り締まる久光に対する期待が高まって出た勅命だとしていますが、『大久保利通』(毛利敏彦著)では、朝廷はそれまで「押しつけがましい公武合体申し入れに迷惑顔だった」が、寺田屋事件でふるえあがり、態度を変えたのだとしています。 *** 同日、薩摩藩邸に拘留されている秋月藩出身の浪士海賀宮門からの申し入れで、前日に引き続き、大久保利通・吉井中助が海賀と会いました。海賀は田中河内介・真木和泉と談合した模様で、大久保らと詳細曲折の議論となりました。その結果、「大抵安心の模様」だったそうです。(『大久保利通日記』) <ヒロ> この議論の内容はなにだったのでしょうか。挙兵組の処分に関連していたのかもしれないと思います。(日時不明ですが)挙兵組中薩摩藩士は本国へ送還、藩士は各藩で引取りと決まりましたが、海賀は秋月藩ではなく、知人が多い薩摩藩への送還を希望したそうです。これがこのときだったのかもしれません。田中も薩摩藩行きになりますが、これもこのときに交渉があったのかもしれません。海賀も田中も、信頼している薩摩藩へ送られることになり、「大抵安心」したのではないでしょうか。27日に薩摩藩士とともに鹿児島へ向った彼らを待ち受ける運命は悲惨でしたが・・・。 関連:■テーマ別「久光上京と寺田屋事件」■「開国開城」「文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上京と寺田屋事件」 <参考>『大久保利通日記』・『徳川慶喜公伝』・『大久保利通』・『島津久光と明治維新』(2003.5.22) ■安政の大獄関係者の大赦と処分 【江】文久2年4月25日、幕府は、安政の大獄で処分を受けていた一橋派の一橋慶喜、徳川慶勝(前尾張藩主)、松平春嶽(前越前藩主)、山内容堂(前土佐藩主)の赦免を決定し、他人面会・文書往復を解禁しました。さらに、朝廷に対して、中川宮(当時青蓮院宮)らの赦免も奏精しました。 <ヒロ> この時期に赦免が行われたことについて、越前藩士中根雪江は<容易ならぬ上方の風説が関東に伝わり、老中らも現在の幕政を継続しがたいことを悔悟されたのだろうか>(「再夢紀事」意訳ヒロ)と推測しています。また、『徳川慶喜公伝』では、幕府は、島津久光の建白を受けて朝命が下る前に先回りをしたのだと解釈しています。いずれにしても、久光の率兵上京と幕政改革の建議が影響していることは間違いありません。 関連:■「開国開城」「安政5〜6:戊午の密勅と安政の大獄」「文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上京と寺田屋事件」「文2:勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」■テーマ別「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」「幕政改革問題」 <参考>『再夢紀事・丁卯日記』・『徳川慶喜公伝』(2003.5.21) |
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