5月の幕末京都 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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☆京都のお天気:晴(久光の日記より) ■庶政委任 【京】元治元年4月17日、二条関白・中川宮は、帰国の挨拶に訪れた春嶽に対し、庶政委任に関する朝議を開く予定であり、旧来どおり、幕府に庶政を委任することになるだろうみだと語りました。 近々に退京・帰国予定の春嶽は、この日、暇乞いのため、各所を回っていました。 春嶽が二条関白を訪ねた際、関白は以下のように語りました。
また、中川宮を訪ねた際のやりとりはこんな感じでした。
<ヒロ> 前16日、幕府より庶政委任を含む18か条の伺書が提出されましたので(こちら)、それを受けて内々の朝議が開かれるということでしょうか。 ●議奏 二条関白の「今日ハ内評議故、議伝ハ参集せさる筈なり」という発言は、議奏・伝奏がいないので庶政委任への異議はでないだろう・・・というようにとれる気がします。このところ、議奏が横浜急速鎖港や長州藩主父子の上京など、「暴論」(『伊達宗城在京日記』)を主張していたといいますから(こちら)、「外国の応接まても公家にて取計ふへし」と「到底行はるへきにあらす」なことを論ずる者とは、議奏なのかもしれないですね? なお、この日、長州藩京都留守居乃美織江が藩士桂小五郎を伴い、議奏正親町三条実愛に謁して、攘夷親征の朝議回復を議したそうです(『維新史料綱要』)。議奏の「暴論」の陰には長州(&シンパ)の陰あり・・・なのかも。 *** 同日、一橋家用人平岡円四郎は、越前藩士中根雪江に対し、朝廷の庶政委任の方針を語るとともに、朝廷が、仮に横浜鎖港交渉が不首尾に終わっても、なお攘夷を迫るなら、(将軍は)「軍職」を返上すべきだと述べました。 この日、中根は、近々帰国するのでその暇乞のために、二条関白を訪ねました。そこに平岡円四郎もやってきていたので、共に時事を語ったそうです。 平岡が語った内容はこんな感じでした。
<ヒロ> 平岡のいっているのは、外国に派遣中の使節による横浜鎖港交渉の結果、鎖港不可となった場合、朝廷があくまでも攘夷を主張するのであれば、征夷大将軍職を返上すべきということだと思います。(閉居するのが江戸城じゃなくて二条城なのですね??将軍が今滞京してるからでしょうか?もしかすると、将軍職とともに禁裏守衛総督職も返上するという意味かもしれません・・・)。このとき、内政はどうするつもりなのか文面からはよくわかりませんが、「閉居」ということは、内政もタッチしないってことでしょうか?庶政委任の中には当然外交政策もはいるはずなので、外交政策で横槍をいれるなら、内政だって知らないよ、っていうことでしょうか?でも、それじゃ、軍職返上じゃなくて、政権返上っていいそうでもあるし・・・?? 平岡の意見をみて、ちょっと思い出すのが、文久2年秋、開国上奏か攘夷奉勅かで幕論がゆれているときに、将軍後見職だった一橋慶喜が唱えた「既に幕府をなきものと見て、日本全国の為を謀らん」ための開国論(こちら)を受けて、政事総裁職(当時)松平春嶽が慶喜に対して、朝廷が開国論を受け入れない場合は幕府は政権返上の覚悟を定め、その覚悟をもって人心を鼓舞してはどうかと提案したことです(こちら)。また、幕閣には一笑に付されたそうですが、側用取次(当時)の大久保忠寛(大久保一翁)が大政奉還論(開国上奏し、朝廷が攘夷断行を命じたときは大政奉還・諸侯の列に下ること)を唱えていました(こちら)。これら一連の議論が頭にあって、平岡のこういう意見がでてきたんじゃないでしょうか。 いずれにせよ、ホンネでは開国論だっていうことがよくわかる平岡の論ですよね。 一方、慶喜実家の水戸藩では、いよいよ断然鎖港を京都に入説しはじめます・・・。頼りにされているのは、もちろん、慶喜です。↓ 参考:『続再夢紀事』三p105-108(2010/10/21) ■天狗党争乱:幕府&水戸藩の動き 【江】元治元年4月17日、水戸藩主徳川慶篤は、横浜鎖港断行を朝幕に入説させるため、家老岡部忠蔵(以忠)に京を命じました。 ●慶喜への書簡 同日、慶篤は、実弟の禁裏守衛総督一橋慶喜に書を認め、鎖港交渉使節の帰国までは鎖港断行が困難であれば、せめて横浜休港(交易停止)を幕議で決定するよう求めました。 書簡の概要は以下の通り。(意訳&適当に省略・箇条書きしています)
同時に、慶篤は、異母弟である因幡・備前藩主に対しても、横浜鎖港について、建白書を二条関白・慶喜に提出したことを知らせ、「幾重にも為国家音尽力有之候様」依頼しています。 さらに、同日、水戸藩支藩宍戸藩の前藩主松平頼位・藩主頼徳も慶喜に書を認め、横浜鎖港断行を訴えました。 ●二条関白への上書 同日、慶篤は、上京する岡部にもたせるために、二条関白宛の上書(横浜の交易停止という段階的鎖港による人心安堵実現への尽力を請願)を認めました。
●幕府(留守老中)の水戸藩に対する疑惑・警戒 同日、水戸藩家老岡部忠蔵の上京計画を知った留守老中たちは、水戸藩が「厳重攘夷」の朝命を出させようとしていると疑い、京都に急報して、前年の長州藩の時のように「無謀之攘夷」にならぬようにと、水戸藩の「策略」に備えさせました。 書簡の概要は以下の通り。(意訳&適当に省略・箇条書きしています)
<ヒロ> 水戸アレルギーですねえ・・・・。 まあ、幕府にとってみれば、水戸藩士の朝廷工作っていうと戊午の密勅を想起しちゃうだろうし・・・でもって、水戸浪士の騒動というと桜田門外の変とか、玉造騒動とか、坂下門外の変とか、東禅寺襲撃(英国公使館襲撃)とか、いろいろ過激な事件を想起しちゃうんでしょうね・・・。無理もないというか・・・。
参考:『水戸藩史料』下p593-599(2010/10/21) 関連:■水戸藩かけあし事件簿■テーマ別元治1「横浜鎖港問題(元治1)」「水戸藩・天狗争乱(元治1)」■おすすめサイト:「水戸学・水戸幕末争乱(天狗党の乱)」 【京】長州藩京都留守居乃美織江、藩士桂小五郎を伴い、議奏正親町三条実愛に謁し、藩主父子の内一人及び家老両名に上京を命じるよう嘆願。また、嘆願攘夷親征の朝議回復を議す。 (『綱要』『維新史』) 【京】幕府、薩摩藩士小松帯刀・高崎猪太郎・高崎左太郎を国事周旋の功により賞す(『綱』) |
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