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元治1年4月17日(1864年5月22日)
【京】庶政委任:二条関白・中川宮、春嶽に対し、
朝廷は幕府に庶政委任の見込みだと語る/
一橋家臣平岡円四郎、越前藩士中根雪江に対し、
【京】鎖港交渉不首尾の場合、朝廷がなお攘夷を迫れば
軍職を返上すべきだと語る
【江】水戸藩主徳川慶篤、慶喜・二条関白に横浜休港の意見書を認め
家老岡部忠蔵に上京・周旋を命じる。
幕府、京都に通報して水戸藩の「策」に備えさせる

☆京都のお天気:晴(久光の日記より)
■庶政委任
【京】元治元年4月17日、二条関白・中川宮は、帰国の挨拶に訪れた春嶽に対し、庶政委任に関する朝議を開く予定であり、旧来どおり、幕府に庶政を委任することになるだろうみだと語りました。

近々に退京・帰国予定の春嶽は、この日、暇乞いのため、各所を回っていました。

春嶽が二条関白を訪ねた際、関白は以下のように語りました。
二条関白 兼ねて御承知の通り、「政令の出る所を朝廷よりとか幕府よりとか、一定すへしとの議」があるが、今日、集会して評議に及ぶことになった。近頃は、「外国の応接まても公家にて取計ふへし抔論するもの」があるが、「到底行はるへきにあらす」なので、「矢張万事旧の如く幕府に御委任」することになるだろう。「尤今日ハ内評議故、議伝ハ参集せさる筈なり(もっとも、今日は内々の評議なので、議奏・伝奏は参集しないはずである)」。

また、中川宮を訪ねた際のやりとりはこんな感じでした。
中川宮 幕府から「旧の如く万事御委任ある様に」と申し立てているので、「御委任」にはなるだろう。しかし「御委任」の上は、今後は何事も幕府に計らいに任せ、その成果を御覧になるまでである。
春嶽 幕府に御委任になっても、朝廷が「国事を御傍観のミ」に留められるべきではありません。やはり、叡慮がおありな限りは、御充分に仰せ出されるのが御相当でしょう。
中川宮 今度帰国されるのは如何にも残念だが、今更御止めもできないだろう。中根なりとも京都に残してほしい。
春嶽 国許の都合があり、雪江は長く在京させがたく、毛受鹿之介なるものに交替させる積りです。
中川宮 ならば、雪江の在京中にニ・三度は鹿之介を連れてこちらに来させ、懇情を結んでおきたい。他に村田巳三郎(=村田氏寿)を出京させれば都合がよい。
(管理人は素人なので絶対に資料として使わないでね。適宜、原文にあたってください)

<ヒロ>
前16日、幕府より庶政委任を含む18か条の伺書が提出されましたので(こちら)、それを受けて内々の朝議が開かれるということでしょうか。

●議奏
二条関白の「今日ハ内評議故、議伝ハ参集せさる筈なり」という発言は、議奏・伝奏がいないので庶政委任への異議はでないだろう・・・というようにとれる気がします。このところ、議奏が横浜急速鎖港や長州藩主父子の上京など、「暴論」(『伊達宗城在京日記』)を主張していたといいますから(こちら)、「外国の応接まても公家にて取計ふへし」と「到底行はるへきにあらす」なことを論ずる者とは、議奏なのかもしれないですね?

なお、この日、長州藩京都留守居乃美織江が藩士桂小五郎を伴い、議奏正親町三条実愛に謁して、攘夷親征の朝議回復を議したそうです(『維新史料綱要』)。議奏の「暴論」の陰には長州(&シンパ)の陰あり・・・なのかも。

***
同日、一橋家用人平岡円四郎は、越前藩士中根雪江に対し、朝廷の庶政委任の方針を語るとともに、朝廷が、仮に横浜鎖港交渉が不首尾に終わっても、なお攘夷を迫るなら、(将軍は)「軍職」を返上すべきだと述べました。

この日、中根は、近々帰国するのでその暇乞のために、二条関白を訪ねました。そこに平岡円四郎もやってきていたので、共に時事を語ったそうです。

平岡が語った内容はこんな感じでした。
朝廷の近頃のご様子では、「旧の如く諸事幕府に御委任」されるようである。
外国の処置については、来年の冬になれば昨年暮れに派遣した使節が帰国するので、その報告を待ち、鎖港可能あればもちろん閉鎖するが、不可であれば止むを得ず、さらなる詮議となるだろう。しかし、「無謀の攘夷」は到底実行すべきではないので、その際は「実際の事情」を朝廷に言上し、その上でなお「攘夷」と命じられるのであれば、「断然軍職を朝廷へ御預ヶ申上」げ、二条城に閉居して「御親政の攘夷」を拝見されるほか、なされようがない。

<ヒロ>

平岡のいっているのは、外国に派遣中の使節による横浜鎖港交渉の結果、鎖港不可となった場合、朝廷があくまでも攘夷を主張するのであれば、征夷大将軍職を返上すべきということだと思います。(閉居するのが江戸城じゃなくて二条城なのですね??将軍が今滞京してるからでしょうか?もしかすると、将軍職とともに禁裏守衛総督職も返上するという意味かもしれません・・・)。このとき、内政はどうするつもりなのか文面からはよくわかりませんが、「閉居」ということは、内政もタッチしないってことでしょうか?庶政委任の中には当然外交政策もはいるはずなので、外交政策で横槍をいれるなら、内政だって知らないよ、っていうことでしょうか?でも、それじゃ、軍職返上じゃなくて、政権返上っていいそうでもあるし・・・??

平岡の意見をみて、ちょっと思い出すのが、文久2年秋、開国上奏か攘夷奉勅かで幕論がゆれているときに、将軍後見職だった一橋慶喜が唱えた「既に幕府をなきものと見て、日本全国の為を謀らん」ための開国論(こちら)を受けて、政事総裁職(当時)松平春嶽が慶喜に対して、朝廷が開国論を受け入れない場合は幕府は政権返上の覚悟を定め、その覚悟をもって人心を鼓舞してはどうかと提案したことです(こちら)。また、幕閣には一笑に付されたそうですが、側用取次(当時)の大久保忠寛(大久保一翁)が大政奉還論(開国上奏し、朝廷が攘夷断行を命じたときは大政奉還・諸侯の列に下ること)を唱えていました(こちら)。これら一連の議論が頭にあって、平岡のこういう意見がでてきたんじゃないでしょうか。

いずれにせよ、ホンネでは開国論だっていうことがよくわかる平岡の論ですよね。

一方、慶喜実家の水戸藩では、いよいよ断然鎖港を京都に入説しはじめます・・・。頼りにされているのは、もちろん、慶喜です。↓

参考:『続再夢紀事』三p105-108(2010/10/21)

■天狗党争乱:幕府&水戸藩の動き
【江】元治元年4月17日、水戸藩主徳川慶篤は、横浜鎖港断行を朝幕に入説させるため、家老岡部忠蔵(以忠)に京を命じました

●慶喜への書簡
同日、慶篤は、実弟の禁裏守衛総督一橋慶喜に書を認め、鎖港交渉使節の帰国までは鎖港断行が困難であれば、せめて横浜休港(交易停止)を幕議で決定するよう求めました


書簡の概要は以下の通り。(意訳&適当に省略・箇条書きしています)
横浜鎖港の件については、長年、宸憂(天皇の憂慮)があり、追々御沙汰も下ったのに(注1)、未だ貫徹に至っていない。
横浜鎖港については、先日、上様が請書を出されてたので(注2)、夫々の熟算もあると察するが、未だ「実事」が行われず、その「懐合」を承知せぬ者は「兎角、因循に被打過候事と而巳、一途に過憂仕」り、「先般宸翰御布告以来、上下疑惑を生し候向」もあり、「甚以人心不穏」だと聞く。
「此程、尊王攘夷と申立、浪人共多勢、常野辺屯集いたし、元家来並領分之もの共」が加わっている。御上洛中は留守方を心得るよう命じられていることもあり、早速鎮静を申し付けたが、どうなると申すべきか。件の通り、「外夷を憤り、掃攘を望候ハ、今更之事に無之、天下一般之人気」であり、公辺において「攘夷之御手段、屹度相立申候てハ、人気を檄し」、領内の取締りが難しくなるだけではなく、「自然天下之争乱にも至」り、宸衷(天皇の心)を悩ませる事になるやもしれない。
横浜の一件は、外国への使節が帰国せぬうちは、「断然鎖港之御取計」ができ兼ねるとの「懐合」であれば、是非もないが、せめて、「交易御停止」となるよう致したい。
速やかに評議の上、「鎖港攘夷之御着眼を以」て、「指当、休商之義」が下知されれば、「攘夷之御手順、実事」が行われることになり、「人心居合」にもなると存じる。
自分は老中等へも評議に及んでいる(注3)。また家老岡部忠蔵に愚存を言い含めて上京させるので(注4)、委細を聞き取り、よろしく検討の上、台慮(将軍の考え)をも伺い、「早速御決議」があるようにしてほしい。

同時に、慶篤は、異母弟である因幡・備前藩主に対しても、横浜鎖港について、建白書を二条関白・慶喜に提出したことを知らせ、「幾重にも為国家音尽力有之候様」依頼しています。

さらに、同日、水戸藩支藩宍戸藩の前藩主松平頼位・藩主頼徳も慶喜に書を認め、横浜鎖港断行を訴えました。

●二条関白への上書
同日、慶篤は、上京する岡部にもたせるために、二条関白宛の上書(横浜の交易停止という段階的鎖港による人心安堵実現への尽力を請願)を認めました。

横浜鎖港之儀に付てハ、是非共成功仕候心得之旨、先達而大樹よりも御請も仕候事にて(注2)、今般、改而申上候筋にも御座無、幕府一同励精罷在候へ共、無謀之攘夷は仕間敷との聖諭之旨も被為在(注1)、惣国之守衛、沿海之武備等、何分多端之手段に有之、未征夷之実効相施し兼候に付、兎角人心不穏、此程、鎖港之儀を申立、常野辺に諸国脱藩之者共、多人数相集、不容易情態にも相聞、其内にハ家来等も相加居候趣、深恐入次第に付、早速取鎮方申付候得共、素々外夷を憤怒罷在候は、天下一般之人気に御座候事故、外寇を除不申候得ば、自然内乱生じ可申も難計、既に其萠(きざし)、眼前御座候間、不取敢、横浜休商取行、鎖港之手段、順速に相運候はば、人心安堵仕可申哉と愚慮仕候に付、此度、家臣為指登、大樹始一橋等江建議為致候條、時宜に寄、御内慮奉伺候儀も可(有カ)御座候間、宜御含被下置、猶更於朝廷も、厚御評議被為在候様仕度奉存候。偏御尽力之程、奉懇祈候。

●幕府(留守老中)の水戸藩に対する疑惑・警戒
同日、水戸藩家老岡部忠蔵の上京計画を知った留守老中たちは、水戸藩が「厳重攘夷」の朝命を出させようとしていると疑い、京都に急報して、前年の長州藩の時のように「無謀之攘夷」にならぬようにと、水戸藩の「策略」に備えさせました。

書簡の概要は以下の通り。(意訳&適当に省略・箇条書きしています)
「水府浪士」は日光山から引揚げて、筑波へ参り、水戸へ戻るようである。しかし、真の鎮静ではなく、「又々策略を構」えて、どんな騒乱を始めるか計り難く、心痛の限りである。
今朝、聞いたところによれば、水戸殿の家老岡部某と申す者が俄かに出立して上京するようである(注4)。「定て堂上方へ取入、御所より厳重攘夷之勅諚か御書付にても被仰出策略に無相違」と存じる。
万々一そのようなことがあれば、「水戸長州と相替候迄にて、昨年之如く、無謀之攘夷に可相成」、そうなれば最早手の施しようもない、是までの御苦心も御上洛も何もかも「画餅」となるだけではなく、「皇国之御存亡旦夕」となる。是非とも「御尽力にて御所御動揺無之様」にしてほしい。
万々一御油断があっては、「最早御取り返し」が出来ぬので、「二日切」の飛脚(注5)でお知らせする。それぞれ、「御手筈に御不行届之事なく、水之策、少しも不行様、厚く厚く御尽力」なさるように。

<ヒロ>
水戸アレルギーですねえ・・・・。

まあ、幕府にとってみれば、水戸藩士の朝廷工作っていうと戊午の密勅を想起しちゃうだろうし・・・でもって、水戸浪士の騒動というと桜田門外の変とか、玉造騒動とか、坂下門外の変とか、東禅寺襲撃(英国公使館襲撃)とか、いろいろ過激な事件を想起しちゃうんでしょうね・・・。無理もないというか・・・。

注1 文久2年11月27日、攘夷別勅使三条実美・姉小路公知が江戸城にて伝宣した攘夷の勅諚のこと(こちら)。攘夷を決定して速やかに諸大名へ布告すること、策略は衆議を尽して至当の公論を決めること、攘夷期限を奏上すること等の内容。また、文久3年6月3日、天皇は参内した将軍に対し、速やかに東下して、外夷掃攘の功を遂げ、武威を海外に輝かせよと命じている(こちら
注2 文久4年(元治元年)1月27日の宸翰(こちら)に対して、幕府が2月18日に出した請書のこと。横浜鎖港交渉使節を派遣しているので鎖港は実現する見込みであり、それまでは武備充実に努めるとの内容(こちら)。
注3 『水戸藩史料』によれば、慶篤は、4月4日、5日に家臣を老中に遣わしたほか、8日、9日、11日には自らが登城し、横浜鎖港を訴えている。
注4 岡部の出立は19日、着京は27日。なお、岡部に先立ち、4月5日頃に藩士長谷川作十郎、11日に奥右筆頭取野村彜之介(つねのすけ:桜田門外の変にも関与した「激派」要人の一人です)が使者として出立している。
注5 2日で届ける飛脚のこと。(継飛脚だとは思いますが、すごい速度ですね)

参考:『水戸藩史料』下p593-599(2010/10/21)
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【京】長州藩京都留守居乃美織江、藩士桂小五郎を伴い、議奏正親町三条実愛に謁し、藩主父子の内一人及び家老両名に上京を命じるよう嘆願。また、嘆願攘夷親征の朝議回復を議す。 (『綱要』『維新史』)
【京】幕府、薩摩藩士小松帯刀・高崎猪太郎・高崎左太郎を国事周旋の功により賞す(『綱』)

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