5月の幕末京都 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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☆京都のお天気:晴天(『幕末維新京都町人日記』) ■庶政委任 【京】元治元年4月20日、朝廷は幕府に対し、庶政委任(政令一途)の勅諚を下し、別紙として重要事項四条(横浜鎖港・海防・長州処分・物価安定)の対策を講じるよう命じました。 勅書の内容は以下の通り(「」以外は仮に読み下しています)
別紙(四条の勅書)は以下に要約する通り。(番号は仮。適宜意訳・省略しています)
朝廷は、同時に、先日幕府が差し出した奏聞18か条に下札をつけて回答しました。(こちら)
<ヒロ> ●文久3年の庶政委任の勅との違い 庶政委任の勅は二度目です。将軍が初上洛した文久3年にも、3月27日、参内した将軍家茂に庶政委任の勅書が与えられています(こちら)。しかし、文久3年の勅書は、委任範囲が「是迄通」と曖昧だったり、事柄によっては直接諸藩に沙汰を下すと書かれていたりで、政令帰一につながる実効性があまりありませんでした。その後も政局の混乱は続き、8月18日には禁門の政変が起ることになります。 今回の勅書は、前回に比べて政令帰一を強く意識したものです。朝廷が「一切」を幕府に委任し、全ての政令は幕府から出されることが明確になっています。 委任相手が、「将軍」個人から将軍をトップとする「幕府」という組織に変っているのも特徴です。なんでなんでしょう?ここはもうちょっと勉強してみます。 表:文久3年と元治元年の勅書との違い
●参豫諸候の意見 政令帰一は、(旧)参豫諸候も望むところでした。容保も、2月16日に孝明天皇が下した密勅への奉答書で、「天下の万機悉皆征夷府ヘ御委任被遊、公卿・御堂上ハ禁中之式事ヲ専トシ、国事ニ携リナキ方、皇国之御為」と、庶政委任を請願していました(こちら)。もしかしたら、二条関白に入説をしたかも?? <こまかい話> 『続再夢紀事』では、将軍が参内して勅書を与えられたとされていますが、『維新史』では、前尾張藩主徳川慶勝、政事総裁職松平直克、老中水野忠精・同酒井忠績・同稲葉正邦らが参内し、関白二条斉敬を経て、勅書を与えられたことになっています。『徳川慶喜公伝』では、慶喜が召しによって参内し、二条関白から勅書を与えられたとなっています。うーん???(確認できたら補足します) 参考:『続再夢紀事』三p110-111、『七年史』ニp190-191、『幕末政治と薩摩藩』、『幕末政治と倒幕運動』(2010/10/22) 関連■テーマ別元治1「庶政委任再確認」 「横浜鎖港問題(元治1)」 「長州・七卿処分問題(元治1)」 ■容保の守護職再任 【京】元治元年4月20日、幕府は会津藩主松平容保の京都守護職の辞表を再度却下しました。 病については、「篤と療養差加、病気快癒罷候はば出勤」すればよいとの通達でした。 参考:『七年史』ニp191(2010/10/22) 関連■テーマ別元治1「会津藩の守護職再任問題」 【京】中川宮、越前藩中根雪江に対し、庶政委任になれば、「近年来の如く、政令両途に出、夫が為め、種々の混雑を生してはよろしからず故」、国事掛を断る積りだと語る。(『続』三p108-109) 【京】前尾張藩主徳川慶勝・政事総裁職松平直克・老中水野忠精・同酒井忠績・同稲葉正邦・高家中条信礼参内、関白二条斉敬及議奏・伝奏と内議。(『綱要』五) 【長州藩】帰藩途上の筑前藩世子黒田慶賛、家老らを従えて、小郡(周防国)に到着。(『綱要』五) |
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