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元治1年4月20日(1864年5月25日)
【京】幕府への庶政委任(政令帰一)の勅書及び重要事項四条
(横浜鎖港・海岸防御・長州処分・物価安定)に関する勅書(別紙)が与えられる。
同時に、朝廷尊奉18か条の奏聞への沙汰も下る。
【京】幕府、容保の守護職辞表を再度却下

☆京都のお天気:晴天(『幕末維新京都町人日記』)
■庶政委任

【京】元治元年4月20日、朝廷は幕府に対し、庶政委任(政令一途)の勅諚を下し、別紙として重要事項四条(横浜鎖港・海防・長州処分・物価安定)の対策を講じるよう命じました。

勅書の内容は以下の通り(「」以外は仮に読み下しています)
幕府の議、内は皇国を治安せしめ、外に夷狄を征伏致すべき職掌に候処、泰平打続き、上下遊情に流れ、外夷驕暴、万民安からず、終に今日の形勢とも相成候事故、癸丑年(注1)以来、深く叡慮を悩ませられ、是まで種々仰出され候儀も之有り候処、此度、大樹上洛、列藩より国是の建議も之有り候間、別段聖慮を以、「先達而(注2)幕府へ一切御委任被遊候事故、以来政令一途ニ出、人心疑惑不生候様可致事。但、国家の大政・大議ハ可遂奏聞事」
(出所:『続再夢紀事』採録の勅書より。管理人は素人なので資料として使わないでね)

別紙(四条の勅書)は以下に要約する通り。(番号は仮。適宜意訳・省略しています)
(1) 横浜については、「是非共鎖港之成功」せよ(注3)。但し、先日の沙汰(注4)の通り、「無謀の攘夷は勿論致間敷事」。
(2) 海岸防御については、「急務専一に心得」て、「実備」致せ。
(3) 長州処置については、三条「実美以下脱走之面々、並宰相之暴臣」に至るまで、一切、朝廷は指図をせぬので、「御委任の廉」を以て、「十分見込之通、処置」せよ。但し、先日の沙汰(注5)の意を汲んで処置する事。
(4) 物価高騰で万民が苦しんでいるので、早急に「人心折合之処置」をせよ。
(出所:『続再夢紀事』採録の勅書より。管理人は素人なので資料として使わないでね)

朝廷は、同時に、先日幕府が差し出した奏聞18か条に下札をつけて回答しました。こちら

注1 嘉永6年。同年にはペリーが浦賀に来航した。(こちら)
注2 前文久3年3月27日に将軍に与えた庶政委任の勅書。(こちら
注3 元治元年1月27日の勅書(孝明天皇が、在京諸侯の面前で家茂に渡した、長州必罰、攘夷のための幕府・諸藩の武備充実、公武一和による天下一新の勅書(こちら))に対して、2月18日に幕府が提出した横浜鎖港の請書において、「成功を遂可申見込」と記している (こちら)
注4 上記1月27日の勅書も、無謀の攘夷は戒める内容となっているが、その前の21日に孝明天皇が家茂に下した内勅(こちら)には「無謀之攘夷」という文言が使われている。

<ヒロ>



●文久3年の庶政委任の勅との違い
庶政委任の勅は二度目です。将軍が初上洛した文久3年にも、3月27日、参内した将軍家茂に庶政委任の勅書が与えられています(こちら)。しかし、文久3年の勅書は、委任範囲が「是迄通」と曖昧だったり、事柄によっては直接諸藩に沙汰を下すと書かれていたりで、政令帰一につながる実効性があまりありませんでした。その後も政局の混乱は続き、8月18日には禁門の政変が起ることになります。

今回の勅書は、前回に比べて政令帰一を強く意識したものです。朝廷が「一切」を幕府に委任し、全ての政令は幕府から出されることが明確になっています。

委任相手が、「将軍」個人から将軍をトップとする「幕府」という組織に変っているのも特徴です。なんでなんでしょう?ここはもうちょっと勉強してみます。

表:文久3年と元治元年の勅書との違い
項目 文久3年3月27日の勅 元治元年4月20日の勅
(1) 委任相手 将軍 幕府
(2) 委任範囲 「征夷将軍之儀、是迄通」委任(←限定的・曖昧) 「一切」委任(←明確)
(3) 政令の出所 「国事之儀、事柄ニ寄、直ニ諸藩へ御沙汰」(←朝廷が直接諸藩に沙汰することもある) 「政令一途ニ出」(←全ての政令は幕府から出される。朝廷が諸藩に直接沙汰を出すことはない)
(4) 諸大名への言及 あり↑ なし

●参豫諸候の意見
政令帰一は、(旧)参豫諸候も望むところでした。容保も、2月16日に孝明天皇が下した密勅への奉答書で、「天下の万機悉皆征夷府ヘ御委任被遊、公卿・御堂上ハ禁中之式事ヲ専トシ、国事ニ携リナキ方、皇国之御為」と、庶政委任を請願していました(こちら)。もしかしたら、二条関白に入説をしたかも??

<こまかい話>
『続再夢紀事』では、将軍が参内して勅書を与えられたとされていますが、『維新史』では、前尾張藩主徳川慶勝、政事総裁職松平直克、老中水野忠精・同酒井忠績・同稲葉正邦らが参内し、関白二条斉敬を経て、勅書を与えられたことになっています。『徳川慶喜公伝』では、慶喜が召しによって参内し、二条関白から勅書を与えられたとなっています。うーん???(確認できたら補足します)

参考:『続再夢紀事』三p110-111、『七年史』ニp190-191、『幕末政治と薩摩藩』、『幕末政治と倒幕運動』(2010/10/22)
関連■テーマ別元治1「庶政委任再確認」 「横浜鎖港問題(元治1)」 「長州・七卿処分問題(元治1)」 

■容保の守護職再任
【京】元治元年4月20日、幕府は会津藩主松平容保の京都守護職の辞表を再度却下しました。


病については、「篤と療養差加、病気快癒罷候はば出勤」すればよいとの通達でした。

参考:『七年史』ニp191(2010/10/22)
関連■テーマ別元治1「会津藩の守護職再任問題

【京】中川宮、越前藩中根雪江に対し、庶政委任になれば、「近年来の如く、政令両途に出、夫が為め、種々の混雑を生してはよろしからず故」、国事掛を断る積りだと語る。(『続』三p108-109)
【京】前尾張藩主徳川慶勝・政事総裁職松平直克・老中水野忠精・同酒井忠績・同稲葉正邦・高家中条信礼参内、関白二条斉敬及議奏・伝奏と内議。(『綱要』五) 
【長州藩】帰藩途上の筑前藩世子黒田慶賛、家老らを従えて、小郡(周防国)に到着。(『綱要』五)

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