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文久2年5月1日(1862.5.29)
【京】長州藩世子毛利定広に浪士鎮撫&国事周旋の朝命。
田中河内介父子、薩摩藩に暗殺される

■長州藩
文久2年5月1日、朝廷は長州藩世子毛利定広に浪士鎮撫及び国事周旋の朝命を下しました

議奏中山忠能は、長州藩家老浦靱負を召しだし、「長門守(定広)も大膳大夫(敬親)の志に従ひて国事に周旋し、且暫く輦下に滞在して警衛の任に当り、薩摩と共に浪士を鎮撫すべし」と伝えました。定広は、浪士鎮撫は請けましたが、国事周旋については、自身が部屋住であることを理由にし、江戸と相談の上、請けたいと答えました。(*『維新史』では4月30日)

参考:『徳川慶喜公伝』(2003.5.29)

関連:■テーマ別「長井雅楽」■開国開城「文1:長州の国政進出:航海遠略策」 「開国開城-文2:長州藩論一転・破約攘夷へ」

■寺田屋事件後
文久2年5月1日、議奏中山忠能元家臣田中河内介・左馬介父子が、鹿児島に向う船中、薩摩藩士によって斬殺され、遺骸は海中に投げ捨てられました。(5月1日という月日のは推定)

田中父子は寺田屋事件後、薩摩藩邸に拘留されていましたが、同志の薩摩藩士とともに薩摩藩に護送されることが決まり、4月27日、海路大坂を出発していました。

しかし、田中河内介は寺田屋事件の原因となった京都挙兵計画の中心人物の一人であり、薩摩藩に送ればどのような騒ぎを起すかわからないと懸念され(『殉難録稿』・『維新史』など)、斬殺されました。一説に、河内介は、そのとき騒がず、「なからへてかはらぬ月を見るよりも死て払はん世々のうく雲」という辞世を詠み、殺されたといいます(『殉難録稿』)。

(おそらく証拠隠滅のため)遺骸は海中に流されましたが、2日に小豆島に漂着しました。その検分書によれば、二人の身体は後ろ手に縄を掛けられ、足かせをかけられていたそうです。縛られて殺されたのかもしれません。(このときの遺骸の腐敗状況などから『田中河内介』では1日に殺されたと推定しています)

田中の暗殺には久光の内命があったともいい(『殉難録稿』)、藩の要路の内命だったともいいます(『維新史』)。中山中左衛門の指示だとする証言もあるそうです(『田中河内介』)。

関連■「開国開城-文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上京と寺田屋事件
参考:『維新史』・『殉難録稿』・『田中河内介』(2003.5.30)

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