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元治1年5月2日(1864年6月5日)
【京】将軍徳川家茂、帰国の挨拶に参内。袖渡しの宸翰を受取る
【京】朝廷、慶喜に鎖港成功までの滞京・尽力を、
政事総裁職松平直克に水戸藩主徳川慶篤と協力しての横浜鎖港尽力、
老中稲葉正邦・水野忠績に滞京・守衛を命じる

☆京都のお天気:雨降。八ツ時より双天(『幕末維新京都町人日記』より)

■将軍東帰
【京】元治元年5月2日、将軍徳川家茂は帰国の挨拶のため参内しました。

●公式の沙汰書
禁裏守衛総督一橋慶喜に鎖港成功までの滞京・尽力を、政事総裁職松平直克に水戸藩主徳川慶篤と協力しての横浜鎖港尽力を、老中稲葉正邦・水野忠績に滞京・守衛を命じる沙汰書が下されました。

●将軍への内勅(袖渡しの宸翰)
孝明天皇は、また、将軍へは、袖渡しで宸翰を渡しました。主要ポイントは以下の通り。
今後も深く依頼する
近々、帰府につき、重ねて面談することが不可能なので、内密に存慮を示し置く。
両度の勅(1月21日の宸翰27日の宸翰)は決して違うことなく、よく守って周旋せよ。
征夷の職掌をあやまらず、武備充実の上、速やかに掃攘し、永代、皇国のために憂いのないようにせよ。
万事委任したので、職掌の失体なきようせよ。
浮浪・暴論の徒は油断なく処置せよ。
(朝廷に対して)幕府はこれまでのような処置をとらず、永代、君臣の名分を明白にするよう心がけよ。
親縁であるので、帰府後も互いに書通をすべきである。そうすれば、妨げ、偽るものがあっても誤解も生じまい。
(↑素人の管理人がかなり意訳しているので、資料として使わないでね)

関連:テーマ別元治1■将軍への二度の宸翰 ■三港閉鎖問題と将軍東帰 ■開国開城「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」

参考:『徳川慶喜公伝』3p47-49 、「元治元年五月二日大将軍御袖渡ノ宸翰」&「山階宮国事文書写」『大日本史料稿本』(東京大学史料編纂所・維新史料綱要DB) (2010/12/18)

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