6月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索  HPトップ

前へ  次へ

文久3年4月28日(1863.6.14)
会津藩、近衛前関白の依頼により、朝倉幸之助捕縛に加勢。
孝明天皇、激怒し、関白・議奏伝奏の参内を停止。

■孝明天皇
文久3年4月28日、京都守護職松平容保は、将軍帰京周旋に向かう朝倉幸之助の捕縛につき、近衛忠煕前関白の依頼により、加勢しました。

事件を知って激派の「軽忽」に激怒した孝明天皇は関白・議奏・伝奏の参内を停止しました。

●朝倉幸之助と姉小路公知の摂海巡視
朝倉幸之助は旗本子弟だったそうで、この頃、しきりに激派公卿に接触していました。同月21日に将軍家茂が朝廷の許可を得て摂海巡視のため退京しました(こちら)が、このとき「将軍の下坂は沿海巡視に託してその実は直に帰府せられんとする企てなり」という流言が行われました。23日、姉小路公知が朝命によって摂海巡視の朝命が下ったのは、将軍の動静を監視するためだとされますが、一説には、これは朝倉幸之助の密告を信じたのだといわれています。(朝倉は将軍上洛への随行を希望していたが、その通りにならなかったので、憤怒して上京し、激派公卿に接触して「妄言虚説」を告げていたのだとか)。

●朝倉への下坂・将軍帰京周旋の沙汰
さて、これも朝倉の入説の結果なのか、関白鷹司輔熙は、朝倉に下坂して将軍帰京を周旋するようにとの沙汰を下しました(国事掛の独走であり、孝明天皇の与り知らぬことでした)。将軍輔翼として滞京していた徳川慶勝は、これを憂え、前関白近衛忠煕に書簡を送り、<将軍滞京について疑念があれば輔翼の自分に沙汰があるべきなのに、身元も不確かな者に沙汰を下し、自分には内密にするとは、何の不審を蒙るのかと心痛している>と告げていました。

●朝倉の捕縛と守護職・国事掛の対立
この日、朝倉は下坂の暇乞いのため、従者十数人を従えて近衛邸を訪問しました。下坂の辞令の交付を求めたといいます(関白からの沙汰があるのに前関白から辞令が必要なのはなぜ?)。近衛前関白は下坂を中止させようと思っていたため、尾張藩に朝倉の訪問を急報しました。町奉行は与力を出動させましたが、従者が十数人いるので手を出しかね、会津藩の加勢を求めました。

朝倉の捕縛を知ると、学習院の国事掛は激昂し、伝奏野宮定功の名をもって<いかなる罪で関白の沙汰を所持する者を捕縛したのか>と容保を詰問しました。容保は、朝倉が関所を破り、幕府高職と身分詐称して公家に出入りし、朝威を憚らずに身分不相応な行装をする事などを挙げ、このような者が横行すれば朝廷の為にもならないので捕縛したと抗弁したそうです。

●孝明天皇の激怒
これを知った孝明天皇は急進派の「軽忽」に激怒して、関白・議奏・伝奏の参内を停止させ、姉小路公知の召還を命じました。

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別文久3年:「生麦事件賠償問題と第1次将軍東帰問題
参考>『徳川慶喜公伝』2・『七年史』一(2003.6.14?)


前へ  次へ

6月の「今日の幕末」  HPトップへ