6月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索 HPトップ
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■将軍東帰問題 【京】文久3年4月21日、将軍徳川家茂は摂海巡視のため退京し、大坂城に入りました。 幕府は前日の20日、攘夷期限を5月10日と布告することとひきかえに将軍退京及び慶喜東帰の許可を得ていました(こちら)。ただし、将軍は必ず帰京して情勢を報告することも命じられていました。 このとき、壬生浪士も将軍警衛に加わり、会津藩士に率いられて下坂しました。彼らを率いていた会津藩公用方の広沢安任(富次郎)の手記によれば、<わが公(注:松平容保)に附属する浪士20人余が、将軍の下坂に随従して警衛をしたいと乞うたので、公は老中の許可を得た。外島機兵衛及び安任が浪士を総括して下坂することを命じられた。将軍が往還する際に路地を警戒した。浪士はこのとき、揃いの外套(注:羽織)を作り、長刀を地面にひきずり、あるいは大髪(注:大たぶさのことか?)を結い、形貌はなはだおそろしく、列をなしており、行き会うものは皆、目をふせて恐れた>(「鞅掌録」口語訳:ヒロ)そうです。 【京】文久3年4月21日、武家伝奏は、諸藩留守居を召しだし、攘夷期限を5月10日と達しました。 「外夷拒絶の期限来五月十日御決定に相成り候間、益軍政相調え、醜夷掃攘之有るべく仰出され候事」(会津藩近世事蹟『維新史三』の引用部分より孫引き) ■生麦事件償金問題 【京】文久3年4月21日、後見職一橋慶喜は東帰の暇乞いのために参内しました。 慶喜が帰府を決めた背景には、実兄である慶篤が将軍目代として帰府したものの、幕閣らの抵抗にあって攘夷が進まないということがありました。このことを知った破約攘夷派の武田耕雲斎(慶喜が実家水戸藩から借り受けていた執政)が、慶喜に帰府して慶篤に助力するよう迫ったことがあるようです。しかし、慶喜はそもそも開国派であり、攘夷をするつもりはないので、帰府の真意は(1)攘夷不履行の場合の責任を将軍に代わって、全権委任の自分が負う、及び(2)懸案を関東に移す、だったとされています。明治47年の回想では、その頃の心境を「いわば予は将軍家の身代りに帰府せしなれば、攘夷の行われざるはいうまでもなきところなり。予は形勢むつかしくなり行かば、力に及ばずとて責を引きて辞職するまでなりと決心したれば、心中にはさしたる苦悶もなかりしなり」(『昔夢会筆記』第一章)と述べています。 慶喜は東下にあたって、実家水戸藩の執政武田耕雲斎(当時、慶喜が補佐役として水戸藩から借り受けていた)を連れることを希望していましたが、朝廷は耕雲斎に水戸藩主名代松平昭訓(余四麿)の補佐を命じていたので、最初、許可しなかったそうです。しかし、慶喜が重ねて請願したので、ついに許可したとか。ただし、耕雲斎は再び上京して昭訓の補佐をすることが命じられたそうです。 <ヒロ> 開国論で、償金支払い拒否も鎖港攘夷もするつもりのない慶喜が、鎖国攘夷一徹の尊攘派である耕雲斎を連れて東帰するというのはかなり不思議ですよね。慶喜の父、烈公斉昭の忠実な家臣である耕雲斎は、今こそ、烈公の遺志を継いで攘夷だ!とはりきるでしょうし。明治43年の第8回昔夢会で、なぜ耕雲斎を連れて帰ったのかときかれた慶喜は「別に用はないんだが。もし連れて帰ったことがあれば、それは水戸の方の関係だろう。別に耕雲斎に用はないはずだ。たぶんそうだったろう」と記憶が曖昧で、聞き手の一人である江間が「表面上なるべく攘夷家のえらそうなのを選り抜いてお連れになったろうと私は考えます」と言うと「それはそうかもしれない」と答えています。表向きは攘夷ということで東帰するので、それらしい人物を連れて帰ったというのでしょうか。(耕雲斎、とことん、あわれ・・・:涙)。 同日、朝廷、及び幕府は後見職慶喜東下決定に関し、前尾張藩主徳川慶勝(守護職松平容保の異母兄)に将軍補翼を命じました 【江】文久3年4月21日、生麦事件処置について、江戸の幕府は英国の求める償金を払うことを決めました。 <ヒロ> 生麦事件の処理については、将軍が京都を離れられないので、将軍名代・水戸藩主徳川慶篤、及び老中格小笠原長行が帰府を命ぜられ、小笠原は6日、慶篤は11日に江戸に到着しました。京都からは、上記のように、5月10日を期限とする攘夷実行を名目として、慶喜が東帰しつつあるのですが、江戸では種々の議論があり、なかなか意見がまとまっていませんでした。 表:生麦事件償金問題に関する幕府内の主な議論
償金支払い期限は、交渉の末、5月3日まで延期が認められていましたが、これ以上の延期は難しい状況でした。期日が迫る中、4月21日、江戸の留守幕閣は、ようやく償金支払いと決め、諸藩に次のように命じました。 「生麦殺傷一條に付き、横浜港へ渡来の英夷応接の儀、曲直を正さず候ては、名義相立ち難く候間、扶助金遣わされ、改めて横浜鎖港の談判御取懸り相成り候間、家来下々迄、無謀小勇の所行之無き様申付べし。時宜に寄り、戦争にも相成るべく候間、兼ねて触置き候通り、銘々覚悟之あるべく候」(『維新史』引用の「続通信全覧」。管理人が読みやすいようにかなを送ったりしているので、原文として利用しないでください) 要するに償金支払いの後、横浜鎖港交渉を行うというもので、いわゆる「鎖国償金」論をとったわけですが、『維新史』では、これを「生麦事件勃発は攘夷期日決定以前なるを以て、償金支払の口実となそうとしたのである」と解説しています。 関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■幕末日誌文久3 ■テーマ別文久3年:「攘夷期限」「生麦事件賠償問題と第1次将軍東帰問題」「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京」 ■長州藩の攘夷戦争 【京】文久3年4月21日、前日に朝廷から帰国の暇を与えられた(こちら)長州藩世子毛利定広は、退京し、帰国の途に就きました。 関連:■開国開城:「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別:「長州藩の攘夷戦争」■長州藩日誌文久3年 |
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