7月の幕末京都 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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☆京都のお天気:雨降 (『幕末維新京都町人日記』 ■池田屋事件前夜の京都の情勢(by薩摩藩家老小松帯刀) 【京】元治元年5月29日、在京の薩摩藩家老小松帯刀は、在藩家老喜入摂津宛に対し、京都の切迫した情勢(長州の大兵上京、守護職が標的、長州による天皇奪取計画の風説)、一橋慶喜からの信頼、長州による会薩の離間工作について報せました。
<ヒロ> 池田屋事件直前の緊迫した様子が伝わってきますよね。でも、会津は鎖港攘夷なんですけど・・・^^;。 なお、5月12日には、西郷吉之助が大久保一蔵に、形勢が悪化するばかりで、公家達は「例の驚怖」の病で「暴客」を恐れていること、近衛前関白父子に護衛を差し向けていること、長州・「暴客」が禁一橋慶喜の野心を疑っていること、「幕奸之隠策」により薩摩に悪評がたっていること、来月にも外国艦隊が長州を攻撃すれば長州・急進派の「暴威」も衰えるだろうこと等を、報じていました(こちら)。 参考:『忠義公史料』三p317-318 (2012/4/5) ■京都の情勢(by桂小五郎) 【京】元治元年5月29日、京都に潜伏中の桂小五郎は、長州藩大坂藩邸留守居役の北条瀬兵衛に対し、草莽の計画を含む京都の情勢を報せました。 ※木戸孝允文書(二)をGetしたら内容を追加します。 関連:■テーマ別元治1「池田屋事件〜禁門の変」 ■長州進発 【長】元治元年5月29日、進発論に決した長州藩は家老国司信濃に上京を命じました。 (日付は防長回天史。『維新資料綱要』は27日) <ヒロ> 帯刀書簡の世評通り・・・。 ●おさらい 文久3年の禁門の政変後、長州藩は失地回復を求めて雪冤運動を開始した。8月23日、政変の報を請けると、取り急ぎ、無罪を訴える嘆願書を家老根来上総に授けて京都に派遣した(入京・嘆願を許されず、10月23日帰国)。今後の方針については、恭順論を主張する保守・穏健派(「俗論党」と進発・東上論(武力をもって訴える)を唱える急進・主戦派(「正議党」)とが対立したが、9月に入って内訌が起り、藩論は急進・主戦派の主張に統一された。 9月17日、急進・主戦派(「正議党」)政権の長州藩は世子定広の武装上京を決定し、10月1日、藩内に「朝政回復」のために「君側の姦」を除くことを藩士に達した(こちら)。一方、中央工作も怠らず、世子上京に先立って藩主父子の「赤誠」を朝廷に達するために、家老井原主計に新たな嘆願書(「奉勅始末」)を授けて西上させた。井原は伏見に入り、入京を嘆願したが、朝廷はこれを許さず、代わりに12月、使者を伏見に派遣して井原の口上を聴取させた(こちら)。翌元治1年1月21日、終に井原は入京を断念して下坂した。 元治元年1月には、将軍家茂が再上京し、公武合体派の孝明天皇の信任を受けた。天皇は二度の宸翰において、無謀・軽率な攘夷を批判して、長州・三条実美ら七卿の必罰を命じた(1/21と1/27)。2月8日、朝廷・幕府は、(1)長州支藩及び家老3人の大坂召喚及び勅使による訊問、(2)三条実美らの京都還送、(3)違背すれば征討と決定し(こちら)、25日、長州藩に支族・家老ら3名の大坂召命を通達した(こちら)。親長州諸藩が京都召命を主張したため、朝議は一時動揺したが、幕府の意見を容れて大坂召命を再決定し、3月5日、改めて長州藩に通達した(こちら) さて、 長州藩は、朝幕・諸藩に対しては入京嘆願等の雪冤運動を進める一方で、内には武備を整え、2月15日に布告された宸翰(こちら)の文面に激昂する主戦派をなだめながら、進発の機会をうかがっていた。3月、末家ら3名の大坂召命が決まると、これを期に藩主父子どちらかが率兵・大挙上京することに決したが、19日、在京勢(桂小五郎・久坂玄瑞)から、形勢が有利になりつつあるので、時機を待つよう要請があり、決行を延期した。(参豫会議の崩壊等公武合体派の足並みの乱れや、筑波において、かねてから長州と盟約を交わしていた水戸藩尊攘激派の急進派(天狗党)が挙兵準備を進めていることなどが攘夷派に有利だと受取られた)。 長州藩は、改めて朝・幕に末家ら3名の入京を、また朝廷に対しては新たに三条実美ら五卿の復職・藩主父子いずれかの上京を嘆願したが、朝廷はその要請を聞き入れなかった。その上、5月10日、大坂への勅使派遣も停止し、25日には末家ら3名の上坂停止・幕命を待てと命じたので、長州藩が直接的・間接的に朝廷に雪冤を訴える機会は失われた(こちら)。 一方、京都では、公武合体派の有力諸候から成る朝廷参豫会議が内部分裂を起こして崩壊して、4月上旬以降、島津久光・松平春嶽等諸侯が相次いで帰国した。5月上旬には将軍も東帰のため、江戸に向かい、京都の幕府側要人には禁裏守衛総督一橋慶喜・守護職松平容保・所司代松平定敬・老中(淀藩主)稲葉正邦が残るだけとなった。尊攘急進派は息を吹き返して、テロ・落書が横行した。国事御用掛に長州シンパの有栖川宮等が任命され(こちら)、5月27日には因幡藩主催で親長州諸藩の有志が集まり、長州援兵を議論した(こちら)。また、これより先、長州と気脈を通じる水戸尊攘「激派」の急進派(水戸天狗党)が筑波で挙兵して、関東は騒然となり、水戸藩等は朝幕に対して、頻りに攘夷断行(横浜鎖港)を入説した。 5月27日、久坂玄瑞や中岡慎太郎が山口に入り、三条実美や藩主らに京都の事情を報じた。主戦派は、好機到来と、かねてからの計画である世子進発を促した。慎重論を唱える者もいたが、藩庁は進発論を採用し、家老国司信濃に上京を命じた・・・。 関連:■テーマ別元治1長州藩の東上(進発vs慎重論) ■天狗・諸生の乱 【江】元治元年5月29日、水戸藩市川派&鎮派(南発勢)が江戸藩邸に到着し、激派鎮圧を訴えました。 <ヒロ> 反天狗(反・激派)の水戸藩家老朝比奈弥太郎・佐藤図書・市川三左衛門ら門閥・保守派及び鎮派は、5月25日、文武師範・諸生500余人を率い、江戸に向って南上を開始しました(南発勢)。市川は水戸郊外千束原で<筑波挙兵は尊王・攘夷を標榜するが実は長州に応じるものである。心ある水戸藩士は傍観できぬ、暴徒を制し民害を除いて、烈公の遺志を遵奉せよ>と激を飛ばしていました。26日、幕府が水戸藩に筑波勢解散を命じ、尊攘激派の重鎮、武田耕雲斎を譴責すると、28日、水戸藩は武田耕雲斎、興津蔵人、中山与三左衛門の江戸執政を罷免、慎隠居に処していました。 参考:『徳川慶喜公伝』3p88 もともとは長州と呼応しての攘夷(破約攘夷)の挙兵だったはずが、水戸藩の内部抗争となってしまいました・・・。今後鬱展開が続きます。ここにいたる水戸のドロドロの内部抗争の簡単なおさらいは↓で。 関連■「水戸藩かけあし事件簿」■テーマ別元治1水戸藩/天狗・諸生争乱■おすすめサイト:「水戸学・水戸幕末争乱(天狗党の乱)」 この後の動き(綱要五) ◆5/30(【天狗・諸生】天狗党、筑波山転陣/【長州】家老福原越後に江戸行を命じる |
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