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文久2年6月9日(1962.7.5):
【江】越前藩、春嶽の進退を評議。
久光の使者・伊地知貞馨、春嶽に重ねて助力を求める。

■春嶽の総裁職就任
【江】文久2年6月9日、幕政参与松平春嶽は病を理由に登城をとりやめ、国許から出府した家老本多飛騨らに進退を評議させました。

家老本多飛騨・松平主馬、奉行長谷部甚平、目付村田氏寿(巳三郎)は同月5日に江戸に到着し、翌6日にも春嶽の進退を評議していました。大老(総裁職)を請けるのか、大老(総裁職)は請けずに幕政参与を続けるのか、幕政参与も辞退するのか・・・。この日も結論は出なかったようです。

■薩摩藩と越前藩
【江】同日夕、島津久光の使者として薩摩藩士伊地知貞馨(堀小太郎)が越前藩邸を訪問し、重ねて春嶽の助力を求めました

伊地知が、応対した中根雪江に対して述べた口上の大意は、
<このたび、勅使差添として東下の上は、精々勅意貫徹を周旋するようにとの(天皇の)御内命もあるが、当節は、(幕政も)追々改革され、先候(=前薩摩藩主島津斉彬)の御遺志も既に行われんとする時勢で、(その点について久光には)別段申し上げるほどの事もない。(一方で、久光が)老中に「存寄」を述べれば、また何かと世評にもなり、それも不本意である。何分にも、老公(=春嶽)におすがりし、万端御相談になりたく思っている>というものでした。

久光が老中に伝えたい「存寄」の一つは、外国人処置についてでした。伊地知は
<京都(=朝廷)は、最初は、通商拒否・夷人退治という意見であったが、たとえ勅命でも実行し難いことはお断りして置いた。しかし、開国説は長井雅楽も失敗して貶められたほどで、容易には受け入れられ兼ねる情勢である。(久光は)元来、外国人の処置は、根元である公武合体を始め、「万民安堵」となった上で行うべきとの御見込みである>とも述べ、中根が久光の「御見込み」について尋ねると、以下の3点を挙げたそうです。
(1) 近年は老中が直接外国人に応接しているが、それによって取り返しのつかない事が起きている。外国事務局を設け、外国奉行の上に別に禄位のある人物を立て(原文脚注:諸侯の中から選挙)、老中に代わって応接すべきである。
(2) 品川御殿山の異人館は人心に障るので、何とかすべきである。
(3) 兵庫開港は、殊の外、好くないので、何とか止めるべきである。

さらに、「京都の人数(=在京薩摩兵)」は公武からの指図で長州兵が引き上げれば同様に引き上げること、先代斉彬の遺志は大老井伊直弼の「暴政」を挫く策より出たことなので、今日となっては春嶽の指図次第でいかようにもするつもりであることを述べたそうです。

参考>『再夢紀事・丁卯日記』(2005.7.7)
関連:■「開国開城」>「文2:勅使&島津久光東下との幕政改革」 ■テーマ別文久2年:「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」「薩摩藩と越前藩

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