7月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 事件:開国:開城 HP内検索 HPトップ
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■勅使大原東下-慶喜・春嶽の登用 【江】文久3年6月10日、勅使大原重徳が登城し、将軍より上席に座って、一橋慶喜の将軍後見職・松平春嶽の大老への登用の勅旨を伝えました 大原が沙汰書を授ける前に述べた口上の大意は次の通り。
大原はさらに、
将軍は<とくと勘考して後ほどお請け申上げるでしょう>と答えました。 <ヒロ> 上記は『徳川慶喜公伝』で紹介されている「島津久光公実紀所引大原左衛門督手控書」によります。これによれば、三事策(1. 将軍上洛と国是議論、2. 五大老新設、3.一橋慶喜の後見職・松平春嶽の大老就任)中、第三条のみが伝えられたことになります。だとすると、5月20日の沙汰(こちら)に沿ったことになります。このほか、最初の二つは開示されたが、主として第三条を主張したとする説(『島津久光公実紀』・『修訂防長回天史』、最初の廷議通り、三事策中の一つを選んで行うようにとの勅諚が伝えられたとする説(『開国起源』『三十年史』『七年史』等)もあります。 ところで、これより前、5月7日、幕府は春嶽を幕政参与に任命し(こちら)、6月1日には、近日中の将軍上洛による公武一和を布告していました(こちら)。勅使の江戸到着前に、第一条と第三条の一部は既に実現していたわけです。幕府が先手をうって実現させていたという言い方の方が適切かもしれません。逆にいえば、第三条の残り=慶喜の後見職登用は、幕府があくまで抵抗するつもりの事項だともいえます。これについて、5月9日には、将軍にはもう後見は必要ないとの理由で田安慶順が後見職を免じられていましたし(こちら)。 というわけで、この後、勅使(&薩摩藩)と幕閣は、主として、慶喜の後見職登用をめぐって攻防をくりひろげることになります・・・。 参考:『徳川慶喜公伝』2・『玉里島津家史料』一・『再夢紀事・丁卯日記』(2002.9.18, 2005.7.11) 関連:■「開国開城」>「文2:勅使&島津久光東下との幕政改革」 ■テーマ別文久2年:「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」■余話「激烈老」勅使大原重徳 |
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