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文久2年6月10日(1862年7月6日)
【江】大原勅使江戸城登城。慶喜・春嶽登用の勅旨を伝える。

■勅使大原東下-慶喜・春嶽の登用
【江】文久3年6月10日、勅使大原重徳が登城し、将軍より上席に座って、一橋慶喜の将軍後見職・松平春嶽の大老への登用の勅旨を伝えました

大原が沙汰書を授ける前に述べた口上の大意は次の通り。
<外夷の事があってから、神宮・御代々に対して恐れ多く、天皇の御憂苦は絶えず、必ず外夷を拒絶せんと思召されている。これは公武一和でなくては成り兼ねるので、和宮を御降配遊ばされ、一和を天下に表したので、十年内には必ず掃攘あるべきと、お気持ちを安んぜられている。さて、当春、松平大膳大夫(=長州藩主毛利敬親)が公武の間に立ち、天下の為に周旋したが、あにはからんや西国・中国の浪士どもが蜂起して、容易ならぬ事を唱え、天下の乱にもなりそうな形勢だったのを、島津三郎が程よく鎮静したが、元はといえば、外夷の事より起ったことなので、外夷の事が定まらねば、真実、治まったのではない。天皇は国難の増長を歎いておられる。国難がなければ天下は幸福である。天下の幸は徳川家の幸である。徳川家が幸であれば朝廷の御安心は申すに及ばない。故に、天皇は深くお考えをめぐらされ、数々の方策の中、人材登用を最上と思召されて、この趣を仰せ出されるのである>(意訳by管理人)

大原はさらに、
<・・・慶喜の後見職就任については、最近、将軍が成人したという理由で田安慶頼の後見を免じたばかりであるので(注:実際は慶喜の後見職任命を避けるための人事)、名目は輔弼でもよいが、実際は後見として政事を相談するように。また、春嶽の大老就任については、大老は家臣の職で越前の家柄に名目上差支えがあるならば、政事総裁職と称してもよいが、実際は大老として政事を取り計らうように。これらは徳川家の中興をと思われる故にお考えをめぐらされて、一橋・越前の件を仰せ出されるのである。差支えがあるとしても、非常の出格をもって登用され、速やかにお請けになるように>(意訳by管理人)
と述べました。

将軍は<とくと勘考して後ほどお請け申上げるでしょう>と答えました。

<ヒロ>
上記は『徳川慶喜公伝』で紹介されている「島津久光公実紀所引大原左衛門督手控書」によります。これによれば、三事策(1. 将軍上洛と国是議論、2. 五大老新設、3.一橋慶喜の後見職・松平春嶽の大老就任)中、第三条のみが伝えられたことになります。だとすると、5月20日の沙汰(こちら)に沿ったことになります。このほか、最初の二つは開示されたが、主として第三条を主張したとする説(『島津久光公実紀』・『修訂防長回天史』、最初の廷議通り、三事策中の一つを選んで行うようにとの勅諚が伝えられたとする説(『開国起源』『三十年史』『七年史』等)もあります。

ところで、これより前、5月7日、幕府は春嶽を幕政参与に任命し(こちら)、6月1日には、近日中の将軍上洛による公武一和を布告していました(こちら)。勅使の江戸到着前に、第一条と第三条の一部は既に実現していたわけです。幕府が先手をうって実現させていたという言い方の方が適切かもしれません。逆にいえば、第三条の残り=慶喜の後見職登用は、幕府があくまで抵抗するつもりの事項だともいえます。これについて、5月9日には、将軍にはもう後見は必要ないとの理由で田安慶順が後見職を免じられていましたし(こちら)

というわけで、この後、勅使(&薩摩藩)と幕閣は、主として、慶喜の後見職登用をめぐって攻防をくりひろげることになります・・・。

参考:『徳川慶喜公伝』2・『玉里島津家史料』一・『再夢紀事・丁卯日記』(2002.9.18, 2005.7.11)
関連:■「開国開城」>「文2:勅使&島津久光東下との幕政改革」 ■テーマ別文久2年:「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」■余話「激烈老」勅使大原重徳

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