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元治1年6月18日(1864年7月18日)
【京】慶喜、書を肥後藩主弟長岡良之助に送り、幕閣の内情・水戸藩の内訌・自家への嫌疑を告げる
【江】横浜鎖港:幕府、老中板倉勝静・酒井忠績、若年寄諏訪忠誠らを罷免


6/17【江】横浜鎖港:幕府、総裁職松平直克の進言により、鎖港反対派の大目付大久保忠恕(一翁)らを罷免/【天狗・諸生】水戸藩執政市川ら、藩主徳川慶篤の命を受け、藩兵を率い、幕府諸隊とともに江戸出発。【越】春嶽、慶喜に返書(続)。
☆京都のお天気:。(『幕末維新京都町人日記』)

>幕府の内訌
【江】元治元年6月18日、幕府は、老中板倉勝静・酒井忠績、若年寄諏訪忠誠ら横浜鎖港反対派を罷免しました。但し、板倉・諏訪には随時登城を命じました

>幕府の内訌・水戸の内訌
〇一橋慶喜の見方

【京】元治元年6月18日、一橋慶喜は、書を肥後藩主弟長岡良之助(護美」に送り、幕閣の内情・水戸藩の内訌・自分への嫌疑を告げました。

(てきとう訳)
・・・(将軍家茂の)還御後の関東の形勢について追々御承知でもあろうか。さてさて歎息痛心の至りである。横浜鎖港は朝廷にも厳重に仰せ出され、(将軍が)御請けも仰せ上げられ、ことに諸事御委任に相成った上は、この度御届がなけれあ朝廷に対され、御申し訳のないことは、十分御承知の通りである。

それなのに、還御後、上(=家茂)には断然の御動きなく、川越(=総裁職松平直克)もまた決心はあるものの、諸有志がこれを忌み、陽には和し、陰にこれを破るので、川越の論は一つも行われぬのみならず、かえって償金支払い、ミニストルの都下永住の議論も起り、ついに両条ともに御聞き届けになる様子である。

その上、川越のことは、「東西相通し合、小子と密謀有之」など、「意外之大嫌疑」を生じ、最近は引き籠っているという。
水戸中納言(=徳川慶篤)も、鎖港に尽力するよう兼て朝廷から仰せ出されているので、如何様にも尽力せねばならぬところ、「幕吏之因循ニ相馴泥(なじ)」んで、義気は大いに挫けており、嘆かわしいことこの上ない。

つまり、大平山(=藤田小四郎らの筑波挙兵)鎮定の件で、御滞京中に耕雲斎へ仰せつけられたが鎮定ができず、幕府でもなされようがない折柄に、去辰年(=安政3年)以来閑居していた「水府之奸人」が兼ねてから時を待って「正義之輩」を退け、(勢力を)回復しようと心掛けおり、幕府でも「久世・安藤同志之輩」がこれまた同断であった。「水府之奸人」が武田の鎮定不行き届きを利用し、かえって(彼を)大平山同志の者のようにした内容の建白をしたので、武田は慎・隠居を仰せ付けられ、「水府執政正義之輩」は残らず罰され、「奸人」が一時に入れ替った。幕府でも太田道醇(=太田資始)の(老中への)再任、酒井・遠藤の旧参政が彼に荷担した。水府では「正奸」の争いが今日にも始まる体だが、実兄(=慶篤)は「奸人ニ泥」んで同意し、かえって「因循」を助けるようになり、内外が呼応して「正奸」が入れ替わった次第には痛息のほかない。この体では、またまた先年のように「暴政」が行われるだろうと至極痛心している。
(彼らは)小生(=慶喜)を「大和(=松平直克)と同腹ニて密謀之本主」と申し唱え、営中でも公然と議論しているという。

数月を待たずして、厳罰を蒙ることは必然である。もっとも、これらのことは、貴君の御滞京中、度々内談に及び、「兼而覚悟」のことゆえ、「一身之冤罪」は顧みないものの、「天下之瓦解を如何して救」うべきだろうか。「死しても不安ハ今日之情態」である。

「我を知る者ハ良公(=良之助)より外無之」、前文の次第を陳述に及んだ。

・・なにとぞ、天下挽回の御良策をお願いしたい・・・。

※草稿は6月11日に作られたようです。

<この頃までの簡単な動き>
3月 ・藤田小四郎ら筑波で挙兵(筑波勢)。※激派の武田耕雲斎は反対する
4月 大平山に屯集。因幡・備前両藩主に攘夷の先鋒となる勅願を依頼
・水戸藩江戸藩邸(武田耕雲斎ら激派が掌握)による説得(4〜5月)。効果なし。
5月 ・筑波勢、筑波へ転陣
・水戸から、反天狗の市川派・鎮派が南上(南発勢)、江戸着。(江戸藩邸(激派)は南発勢を抑留しようととするが、藩主慶篤が市川派寄りで叶わず)
6月 ・江戸藩邸の武田耕雲斎ら激派更迭、市川派要職に復活。
・政事総裁職松平直克、争乱の根本は横浜鎖港の遅延であると考え、鎖港反対の幕閣更迭を進言(6/3)。水戸藩主徳川慶篤激怒。直克、登城をやめて引き籠る。

<ヒロ>
この頃の慶喜が、筑波勢や武田耕雲斎に同情的で、実兄に批判的だというのがよくわかる手紙だと思います。(この時点ではまだ水戸藩内訌であり、幕府とは交戦していませんでした)

同じ日、やはり水戸家出身の備前藩主池田茂政(慶喜異母弟)が慶喜宛に手紙を書いていますが、その手紙でも、大平山の徒や武田耕雲斎を「正義」とみなしています。茂政は、さらにこの一件は「水戸一藩之難事のみならず、即天下正論義士之勢いを座挫致」し、「皇国正気之興廃」に関わると論じ、慶喜の尽力周旋を懇願しています。

約半年後、慶喜は、武田耕雲斎い率いられて西上する天狗党を追討することになりますが、陣地から、やはり、長岡良之助に、そのへんの事情を記した手紙を送っています(こちら)

参考:『徳川慶喜公伝史料篇』ニp113-115

〇会津藩江戸首脳の見方
【江】同日、会津藩江戸家老上田一学は、在京家老神保内蔵助等に、幕閣内訌の事情を報じ、会津藩は関与せぬよう求めました。


後日UPします。

その他の動き
【四国艦隊砲撃】英国から急遽帰国した長州藩士井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)、英国特派全権公使オールコック等に面会し、講和のため藩主毛利慶親を説くことを申し入れる。藩主への書を預かり、英国艦に乗船して萩へ向かう
【天狗・諸生】総裁職松平直克、将軍の諮問に水戸藩による筑波天狗党説得鎮撫を主張し、幕兵派遣に反対

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