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◆6/17【江】横浜鎖港:幕府、総裁職松平直克の進言により、鎖港反対派の大目付大久保忠恕(一翁)らを罷免/【天狗・諸生】水戸藩執政市川ら、藩主徳川慶篤の命を受け、藩兵を率い、幕府諸隊とともに江戸出発。【越】春嶽、慶喜に返書(続)。
☆京都のお天気:。(『幕末維新京都町人日記』) >幕府の内訌 【江】元治元年6月18日、幕府は、老中板倉勝静・酒井忠績、若年寄諏訪忠誠ら横浜鎖港反対派を罷免しました。但し、板倉・諏訪には随時登城を命じました >幕府の内訌・水戸の内訌 〇一橋慶喜の見方 【京】元治元年6月18日、一橋慶喜は、書を肥後藩主弟長岡良之助(護美」に送り、幕閣の内情・水戸藩の内訌・自分への嫌疑を告げました。 (てきとう訳)
※草稿は6月11日に作られたようです。 <この頃までの簡単な動き>
<ヒロ> この頃の慶喜が、筑波勢や武田耕雲斎に同情的で、実兄に批判的だというのがよくわかる手紙だと思います。(この時点ではまだ水戸藩内訌であり、幕府とは交戦していませんでした) 同じ日、やはり水戸家出身の備前藩主池田茂政(慶喜異母弟)が慶喜宛に手紙を書いていますが、その手紙でも、大平山の徒や武田耕雲斎を「正義」とみなしています。茂政は、さらにこの一件は「水戸一藩之難事のみならず、即天下正論義士之勢いを座挫致」し、「皇国正気之興廃」に関わると論じ、慶喜の尽力周旋を懇願しています。 約半年後、慶喜は、武田耕雲斎い率いられて西上する天狗党を追討することになりますが、陣地から、やはり、長岡良之助に、そのへんの事情を記した手紙を送っています(こちら)。 参考:『徳川慶喜公伝史料篇』ニp113-115 〇会津藩江戸首脳の見方 【江】同日、会津藩江戸家老上田一学は、在京家老神保内蔵助等に、幕閣内訌の事情を報じ、会津藩は関与せぬよう求めました。 後日UPします。 その他の動き 【四国艦隊砲撃】英国から急遽帰国した長州藩士井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)、英国特派全権公使オールコック等に面会し、講和のため藩主毛利慶親を説くことを申し入れる。藩主への書を預かり、英国艦に乗船して萩へ向かう 【天狗・諸生】総裁職松平直克、将軍の諮問に水戸藩による筑波天狗党説得鎮撫を主張し、幕兵派遣に反対 |
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