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元治1年6月16日(1864年7月18日)
【京】水戸藩士林忠五郎ら、一橋用人平岡円四郎暗殺
【京】一橋家雇(水戸藩士)原市之進、備前藩主池田茂政に書を送る
【長州東上】長州藩、続々と進発(真木和泉、久坂玄瑞、諸隊を率いて進発


☆京都のお天気:晴天。土用入。(『幕末維新京都町人日記』)
■一橋家用人平岡円四郎の暗殺
【京】元治元年6月16日(7月18日)、一橋家用人平岡円四郎が京都町奉行所与力長屋(千本組屋敷)外で、水戸藩士林忠五郎・江幡広光らによって暗殺されました。このとき、一橋使役過人河村恵十郎は林・江幡を斃しました。

徳川慶喜公伝では、池田屋事件以降、慶喜を黒幕とする流言飛語が甚だしく(「一橋中納言衛旅と偽り、奸計を以て勤王誠義の士を捕縛せる上は其旅館に放火すべし」、「此度の事専ら一橋の手に出づ、されば一橋を始め幕議に与る者は皇国の大罪人なり、遠からず天誅を加ふえし」)、ついに(慶喜の代わりに)用人が殺されるにいたったと説明しています。犯人については言及していませんが、当時から犯人は水戸藩士だという風説が流れていました。

<去る十一日夜、一橋様家来平岡円右衛門(円四郎の誤り)と申す人が、大目付渡邊甲斐守旅宿へ御用談に赴き、深更になって帰ったが、一橋様の御屋敷の御門の内に、何者かが多人数で現れて大袈裟に切り倒し、ほかに幕府の河村某も深手を負い、先方にも二人深手を負わせた。その場に倒れていた二人は何者かが連れ去った。忍び入った者たちが誰なのかは不明だが、水戸藩士だという>

<ヒロ>
林忠五郎側の資料はすぐには見当たりませんでした。水戸藩士にとっては慶喜は主筋です。慶喜に悪評がたっているのは平岡円四郎のせいだと思い、君側の奸を除くというような気持ちだったのでしょうか。この日、原市之進が備前藩主池田茂政に書を送ってるらしいので、それを見つければ何かわかるかも・・・?(見つけたらUPしにきます)

参考:『維新史料綱要』五、『甲子雑録』一p575-576、『徳川慶喜公伝』3p53(2018/1/9)
関連:◆5/12【京】西郷隆盛、在国の大久保利通に、慶喜野心の噂などを報じる ◆6/1【京】西郷隆盛、国許の大久保利通に、外国の長州襲来は幕府(一橋慶喜)の陰謀だとの見方等を伝える ◆6/8【京】五條橋に一橋慶喜を池田屋事件の黒幕とする張り紙 ◆6/9【京】長州藩、池田屋事件について、慶喜に抗議 ◆6/14【京】西郷隆盛、国許の大久保利通に池田屋事件後の情勢(慶喜の黒幕説)を報知

【長州東上】元治元年6月16日、家老福原越後が山口を出立し、真木和泉・久坂玄瑞が諸隊を率いて三田尻を出立しました

前15日に木島又兵衛が遊撃隊を率いて上京の徒についたのに続き、この日は、家老福原越後が江戸に向けて進発しました(ただし、途中、江戸行を中止し、伏見に留まる)。また、前年の8.18政変で都落ちした急進派公卿の従士・真木和泉及び長州藩士久坂玄瑞が、忠勇・集議・八幡・義勇・宣徳・尚義の六隊を率いて三田尻を出発しました。(『維新史』四p37)

なお、6月5日に起こった池田屋事件の報が長州に達したのは同月9日だったとの説もあります。(『徳川慶喜公伝』3p52-53)

関連:テーマ別元治1「長州藩の東上(進発vs慎重論)

【京】同日、一橋家(水戸藩士)原市之進、書を備前藩主池田茂政に送り、幕府要路の対立・水戸藩の内訌等を憂憤し、因幡藩主池田慶徳との協力による事態救済を要請(綱要五)
この後、6/21までの動き(綱要五)
◆6/17【江】横浜鎖港:幕府、総裁職松平直克の進言により、鎖港反対派の大目付大久保忠恕(一翁)らを罷免/【天狗・諸生】水戸藩執政市川ら、藩主徳川慶篤の命を受け、藩兵を率い、幕府諸隊とともに江戸出発。【越】春嶽、慶喜に返書(続)。
◆6/18 【京】慶喜、書を肥後藩主弟長岡良之助(護美」)に送り、幕閣の内情・水戸藩の内訌・自家への嫌疑を告げる。【江】横浜鎖港:鎖港反対派の老中板倉・酒井ら罷免。/会津藩江戸家老上田一学、在京家老神保内蔵助等に、幕閣内訌の事情を報じ、会津藩は関与せぬよう求める。/四国艦隊砲撃:長州藩士井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)、英国特派全権公使オールコックらから、藩主毛利敬親への書を預かり、英国艦に乗船して萩へ向かう【天狗・諸生】総裁職松平直克、将軍の諮問に対し、水戸藩による筑波天狗党説得鎮撫を主張し、幕兵派遣に反対
◆6/19【京】横浜鎖港:朝廷、横浜鎖港に関する世評及び因幡・備前両藩の建白を議す。

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