8月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国開城 HP内検索 HPトップ
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■長州藩VS小倉藩 文久3年6月18日、長州藩は5月の外国船砲撃に対岸の小倉藩が応援しなかったのを罪として、関門警備を理由に同藩に侵攻し、田の浦を占領して砲台を築きました。 <攘夷をめぐる長州藩と小倉藩の確執> 5月に長州藩が外国船を砲撃したとき、対岸の小倉藩は傍観していました。長州藩は使者を送って詰問しましたが、小倉藩は、無謀過激の攘夷を戒める幕令を遵守したのだと反駁しました。米仏軍艦との戦いで敗北するに及んで、長州藩は敗北の原因を小倉藩に帰し、6月18日、不意に小倉藩に侵攻し、田ノ浦を占領して砲台を築き、さらに小倉藩の罪を朝廷に訴えました。 驚いた小倉藩は「将軍家の命令はすなわち叡慮と相心得たり」と京都守護職会津藩や幕府に救解を求めました。朝議は小倉藩の行為を「違勅」として処罰することを内定しましたが、会津藩や尾張藩が、幕府は攘夷を奉勅したがまだ戦端を開いていないので、諸藩が勝手に外国船に砲撃していいわけではなく、小倉藩の行為は違勅ではないと周旋したので、沙汰やみになったそうです。 一方、幕府は、7月12日、長州の小倉侵攻を詰問し、撤兵を命じました。 <ヒロ> 長州と小倉の確執は以後も続いていくわけですが、慶応2年には長州が小倉に再び侵攻。小倉藩は城を焼き払って撤退し、庶民は肥後領に逃げました。 慶応3年、九州遊説中の高台寺党伊東甲子太郎は、肥後で難民を目撃したようで、日記に「小倉の人老少婦人残らず肥後領に移り来る事とて、実に哀れの有様、思はず落涙致し候」とかいています。 伊東は長州寛典を主張していましたが、長州と敵対した小倉藩難民の惨状に思わず涙を流す・・・彼の人間性をしのばせるエピソードかな・・・と思います。 このときの、戦争(内乱)になれば苦しむのは庶民だという強烈な(再)認識が、九州から帰って御陵衛士として新選組を離脱した伊東の、「同心一和」を主眼とする志士的活動の根底を支えていたのではないか・・・そんな気もします。(伊東らは討幕をめざしてたんじゃないんですよ〜、よく誤解されてるけど)。 参考:『京都守護職始末』・『七年史』・『新選組史料集コンパクト版』(2001.8.2) 関連:■開国開城:「文久3:賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別「長州藩の攘夷戦争」 「長州藩の小倉侵攻」 朝廷は、大坂城代及摂海警備の諸藩に対し、各藩協力して攘夷を実行するよう命じました。 一方、将軍大坂出航翌日の6月14日、大坂城代大河内信古は、幕命を摂海沿岸警備諸藩に伝えて、みだりに外国船艦を砲撃することを禁じていました。 阿波藩主蜂須賀斉裕・島原藩主松平忠和・尼崎藩主桜井忠興・岡藩主中川久昭・土佐藩主山内豊範は、朝令幕達が互に齟齬するところがあるので、武家伝奏あるいは大坂城代に指揮を求めました。 参考:『維新史料綱要』四 |
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