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開国開城19: 攘夷祈願の賀茂・石清水行幸
と長州藩の攘夷戦争
(文久3年3〜6月)

<要約>

文久3年3月11日と4月11日、孝明天皇は賀茂上下神社・泉涌寺、及び石清水神社への攘夷祈願の行幸を行った。攘夷親征を画策する長州藩の建議を入れた朝議により決まった行幸である。将軍は賀茂行幸には供奉したが、尊攘急進派が社前で攘夷の節刀授与を計画していたという石清水行幸は仮病を使って辞退した。A.攘夷祈願の賀茂・石清水行幸

上洛中の将軍に破約攘夷実行圧力の高まる中、幕府は将軍退京(大阪湾巡視)及び後見職一橋慶喜東帰の勅許とひきかえに、攘夷期限5月10日を約束し、諸大名に布告した。期限当日、長州藩が米商船を砲撃を加えた。3月の勅命により、攘夷の方策と諸藩の統率は幕府への委任が確認されたはずだったが、尊攘急進派が主導する朝議は幕命とは異なる指図(長州に協力しての攘夷実行)を、しかも諸藩に対して直接出し続けた。政令帰一はならず、公武間の対立は広まる一方だった(B.攘夷期限の布告と長州藩の攘夷戦争

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A.賀茂・石清水行幸
(文久3年4月)


将軍:家茂 後見職:一橋慶喜 総裁職:松平春嶽 守護職:松平容保
老中:板倉勝静 首席老中:水野忠精 老中格:小笠原長行 所司代:牧野忠恭
   
天皇:孝明 関白:鷹司輔熙 国事扶助:中川宮 参政・寄人:三条実美ら
  

◆攘夷祈願のための賀茂・石清水行幸

このころ、京都における尊攘急進派の盟主は長州藩だった。2月20日、世子毛利定広は攘夷祈願のための賀茂上下社・泉涌寺の行幸を建議した(こちら)。3月11日にこれを成功させると(こちら)、次に石清水の行幸を建議した(こちら)。公武合体派公卿は反対したが、尊攘急進派公卿の主導で朝議は4月11日・12日の行幸と決まり、将軍の供奉の沙汰が下った(こちら)。

尊攘急進派は石清水神社社前で攘夷の節刀(将軍出征時に天皇が与える刀)を将軍に授け、攘夷決行を余儀なくさせようと計画していたという。また、石清水行幸が決まってまもなく、急進派公卿の中山忠光が京を脱して長州に下った事件があり、この中山が長州浪人とともに上京して行幸中の天皇の輿を奪い、将軍を殺害する計画があるとの噂が流れた。後見職慶喜は中川宮や鷹司関白に石清水行幸中止を諫言したが(こちら)、長州藩の反対で行幸は決行されることになった(こちら)

行幸前日、かねてから行幸に消極的だったという孝明天皇は体調不良を理由に延期を関白に諮ったが、国事参政三条実美の強い反対で意思は通らなかった。

一方、その夜、幕府は慶喜の判断で家茂に仮病を使わせ、随従を辞退させた。若年の将軍を天皇の側に一人にさせて無理な勅命を下されるのを怖れたというが、攘夷の節刀授与を事前に察知して避けようとしたのだとも、当時流布していた尊攘急進派による将軍殺害を恐れたのだともいう(こちら)

行幸当日、慶喜が将軍代理として供奉したものの、社頭で将軍代理の慶喜に節刀を授けようとする動きを察してか、急病になったとして社頭には行かなかった(慶喜は本当に病気だったと回想している)。(こちら)
 容保は石清水行幸への将軍供奉とりやめの動きを、「幕威に傷が付く」として反対した(こちら) 。
関連■テーマ別文久3「賀茂・石清水行幸&攘夷親征」 

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B.幕府の攘夷期限布告と長州藩の攘夷戦争
(文久3年5〜6月)


将軍:家茂 後見職:一橋慶喜 守護職:松平容保 老中:板倉勝静
首席老中:水野忠精 老中格:小笠原長行 所司代:牧野忠恭
   
天皇:孝明 関白:鷹司輔熙 国事扶助:中川宮 参政・寄人:三条実美ら
  

◆幕府の攘夷期限布告

幕府は最初、破約攘夷の期限を将軍帰府後20日の4月中旬頃とし(こちら」)、さらに4月23日と約束していた。しかし、もともと破約攘夷を行う気はなかったので、期限が迫る18日、とりあえず将軍が京都を去るしかないと決め、その口実として、将軍の大阪湾巡視、及び鎖港攘夷のための慶喜東帰を願い出た。朝廷は、慶喜東下による攘夷期日を明らかにすること、及び将軍が帰京して報告することを求めたので、幕府にとってはいわばやぶへびとなった(こちら)

4月 20日、幕府は将軍退京、及び慶喜東帰とひきかえに、朝廷に対して外国拒絶期限5月10日を約束し、即日、諸大名に布告した。(こちら)。幕府の約束した破約攘夷は、鎖港攘夷であり、外国船打ち払い(無二念打払い)ではなかった。鎖港攘夷についても困難さを知悉しており、本気で攘夷を行うつもりはない。

◆長州の外国船砲撃と朝幕の対応

しかし、尊攘急進派にとって、攘夷=無ニ念打ち払いだった。期限当日の5月10日、長州藩(久坂玄瑞率いる光明党)はたまたま関門海峡を通過したアメリカ商船ペングローブ号に砲撃をしかけ(こちら)、さらに23日にフランス軍艦キンシャン号、26日にオランダ船メドューサ号を砲撃した(こちら)。不意をつかれた外国船は敗走し、長州藩は「勝利」に沸いた。

朝廷は、6月1日、尊攘急進派の主張で長州藩を賞賛する沙汰を下す一方で、6日には傍観の藩を非難し、長州と一体となって攘夷を実行するよう促した。さらに14日、国事寄人の正親町公菫攘夷監察使として長州に派遣し、攘夷を賞賛する勅を伝えさせた。

一方、外国と交渉中の幕府にとって、長州の外国船砲撃事件は晴天のへきれきだった。長州にとっては攘夷の勅を奉じた外国船砲撃だが、幕府にとっては無謀過激の攘夷を戒めた幕令に違背した行為であった。幕府は、長州に対して、6月12日、外国拒絶(鎖港)を交渉中にみだりに兵端を開いたことを詰問し、さらに、7月8日、交渉いかんで打払うときがくれば改めて命令するので、みだりに外国船に発砲してはならないと命じた(こちら)

3月の勅命により、攘夷の方策と諸藩の統率は幕府への委任が確認されたはずだったが、尊攘急進派が主導する朝議は幕命とは異なる指図を、しかも諸藩に対して直接出し続けた。政令帰一はならず、公武間の対立は広まる一方だった。

◆米仏の報復と奇兵隊の創設

外国側は幕府に厳重な抗議を行い、翌6月初旬、米仏の軍艦が次々と下関に報復攻撃を行った。長州は惨敗し、隠棲中の高杉晋作の軍事指導力を期待して彼を再起用した。このとき高杉が考えた新しい軍制が、陪臣・雑卒・藩士、そして士農工商様々な階級出身者から成る奇兵隊である。(正規軍となったのは慶応1年)

◆長州藩の小倉侵攻

長州藩は外国船砲撃に対岸の小倉藩が応援しなかったのを罪として、6月18日、関門警備を理由に同藩に侵攻し、田の浦を占領して砲台を築いた(こちら)

◆幕府の長州訊問使中根一之丞暗殺(朝陽丸事件)

幕府は、7月9日、長州に外国船打ち払いを改めて厳命すると(こちら)、15日、幕命に背く外国船攻撃及び小倉藩侵攻を詰問するため、訊問使中根一之丞をを長州に派遣した(こちら)。長州藩(奇兵隊)は糾問使一行の船(朝陽丸)が下関に入ると、幕府軍艦と知りながら砲撃し、乗り込んで一行10名を威嚇し(こちら)、さらには先の攘夷戦争でアメリカ軍艦に撃沈された藩の軍艦の代わりに借用すると称して朝陽丸を武装占拠した。船を奪われた訊問使一行は陸路、応接場所の小郡に向かった。中根は幕府の訊問所を提出し、8月4日、長州藩の答弁書を受領したが、朝陽丸が乗っ取られたままで、一行は小郡から動けなかった。19日夜、刺客が一行を襲い、2名を殺害し、1名を梟首した(こちら)。中根は、朝陽丸の回航を待たずに出発することとし、21日、長州藩の調達した船に乗って東帰の途についたが、刺客は海上の中根を追跡し、船に乗り込んで殺害した(こちら)

関連■テーマ別文久3「長州藩の攘夷戦争 (訊問使中根一之丞殺害)」「長州藩VS小倉藩」 
長州ファイブの密航
長州藩は、破約攘夷を主唱して過激な行動をとる一方で、裏では、将来的な開国・貿易に備えて、藩士3名(井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三)に洋行を命じていた。後から合流した伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)を含めた5名は、5月12日、国禁を犯して密かに英国商船で横浜を出航し、上海経由で英国に向かった(11月着)。
砲術教授中島名左衛門暗殺
光明党による外国船砲撃で勝利に沸く長州藩は、29日、世子定広臨席の下、戦術会議を開いた。会議で、砲術教授中島名左衛門は技術の未熟さと軍律の不完全さを指摘し、軍規の確立と実弾による射撃訓練の必要性を主張して、光明寺党らの激しい反駁を受けた。中島が黙り込んだので場は収まったが、その夜、中島は何者かに暗殺されてしまった(こちら)(光明寺党の仕業だといわれている)。

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(2001/7/21)


<主な参考文献>
越前藩関係:『昨夢紀事』・『再夢紀事』・『続再夢紀事』・『逸事史補・守護職小史』
会津藩関係:『会津藩庁記録』・『会津松平家譜』・『七年史』・『京都守護職始末』
慶喜関係:『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』
その他:『官武通紀』・『大久保利通日記』
<主な参考専門書・一般書>
『開国と幕末政治』・『徳川慶喜増補版』・『高杉晋作』・『幕末長州の攘夷戦争』・『奇兵隊』

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