<要約>
| 文久3年3月11日と4月11日、孝明天皇は賀茂上下神社・泉涌寺、及び石清水神社への攘夷祈願の行幸を行った。攘夷親征を画策する長州藩の建議を入れた朝議により決まった行幸である。将軍は賀茂行幸には供奉したが、尊攘急進派が社前で攘夷の節刀授与を計画していたという石清水行幸は仮病を使って辞退した。(A.攘夷祈願の賀茂・石清水行幸) 上洛中の将軍に破約攘夷実行圧力の高まる中、幕府は将軍退京(大阪湾巡視)及び後見職一橋慶喜東帰の勅許とひきかえに、攘夷期限5月10日を約束し、諸大名に布告した。期限当日、長州藩が米商船を砲撃を加えた。3月の勅命により、攘夷の方策と諸藩の統率は幕府への委任が確認されたはずだったが、尊攘急進派が主導する朝議は幕命とは異なる指図(長州に協力しての攘夷実行)を、しかも諸藩に対して直接出し続けた。政令帰一はならず、公武間の対立は広まる一方だった(B.攘夷期限の布告と長州藩の攘夷戦争) |
| 将軍:家茂 |
後見職:一橋慶喜 |
総裁職:松平春嶽 |
守護職:松平容保 |
| 老中:板倉勝静 |
首席老中:水野忠精 | 老中格:小笠原長行 |
所司代:牧野忠恭 |
| 天皇:孝明 |
関白:鷹司輔熙 | 国事扶助:中川宮 |
参政・寄人:三条実美ら |
◆攘夷祈願のための賀茂・石清水行幸
このころ、京都における尊攘急進派の盟主は長州藩だった。2月20日、世子毛利定広は攘夷祈願のための賀茂上下社・泉涌寺の行幸を建議した(こちら)。3月11日にこれを成功させると(こちら)、次に石清水の行幸を建議した(こちら)。公武合体派公卿は反対したが、尊攘急進派公卿の主導で朝議は4月11日・12日の行幸と決まり、将軍の供奉の沙汰が下った(こちら)。 |
関連■テーマ別文久3「賀茂・石清水行幸&攘夷親征」 |
| 将軍:家茂 |
後見職:一橋慶喜 |
守護職:松平容保 |
老中:板倉勝静 |
| 首席老中:水野忠精 | 老中格:小笠原長行 |
所司代:牧野忠恭 |
| 天皇:孝明 |
関白:鷹司輔熙 | 国事扶助:中川宮 |
参政・寄人:三条実美ら |
◆幕府の攘夷期限布告
幕府は最初、破約攘夷の期限を将軍帰府後20日の4月中旬頃とし(こちら」)、さらに4月23日と約束していた。しかし、もともと破約攘夷を行う気はなかったので、期限が迫る18日、とりあえず将軍が京都を去るしかないと決め、その口実として、将軍の大阪湾巡視、及び鎖港攘夷のための慶喜東帰を願い出た。朝廷は、慶喜東下による攘夷期日を明らかにすること、及び将軍が帰京して報告することを求めたので、幕府にとってはいわばやぶへびとなった(こちら)。 |
長州藩は、破約攘夷を主唱して過激な行動をとる一方で、裏では、将来的な開国・貿易に備えて、藩士3名(井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三)に洋行を命じていた。後から合流した伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)を含めた5名は、5月12日、国禁を犯して密かに英国商船で横浜を出航し、上海経由で英国に向かった(11月着)。 光明党による外国船砲撃で勝利に沸く長州藩は、29日、世子定広臨席の下、戦術会議を開いた。会議で、砲術教授中島名左衛門は技術の未熟さと軍律の不完全さを指摘し、軍規の確立と実弾による射撃訓練の必要性を主張して、光明寺党らの激しい反駁を受けた。中島が黙り込んだので場は収まったが、その夜、中島は何者かに暗殺されてしまった(こちら)(光明寺党の仕業だといわれている)。 |
将軍上洛と大政委任問題
老中小笠原の率兵上洛
(2001/7/21)
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<主な参考文献>
越前藩関係:『昨夢紀事』・『再夢紀事』・『続再夢紀事』・『逸事史補・守護職小史』 会津藩関係:『会津藩庁記録』・『会津松平家譜』・『七年史』・『京都守護職始末』 慶喜関係:『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』 その他:『官武通紀』・『大久保利通日記』 <主な参考専門書・一般書> 『開国と幕末政治』・『徳川慶喜増補版』・『高杉晋作』・『幕末長州の攘夷戦争』・『奇兵隊』 |
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