8月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3) 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ

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文久3年6月25日(1863.8.9)
【京】朝廷、守護職松平容保に「東下&攘夷貫徹周旋」の勅諚と将軍譴責の沙汰書下付

■攘夷督促&急進派の容保東下運動
【京】文久3年6月25日、御所に召された京都守護職松平容保に対し、関白鷹司輔熙は東下・攘夷貫徹周旋の勅諚及び将軍譴責の沙汰書を下下付しました

勅諚の概容は以下の通り(口語訳by管理人)
(天皇が)将軍の東下後、関東の形勢はどうかと不安に思っておられるので、事情を熟察し、速やかに東下の上、攘夷の叡慮が貫徹するようにせよとの御沙汰である

副書として、将軍が(1)再度上京するとして下坂しておきながら急遽帰府したこと、(2)攘夷実行をしないこと、を譴責する内容の沙汰書がついていました
「大樹二百年依頼の廃典を興し、上洛之有り、万事恭順、君臣名義改正の儀、深く叡感候處、九日賜暇下坂之有候以前、奏聞の件々、始末不分明、殊に蒸気船にて、速かに帰府、且つ第一攘夷期限等の儀に於て、不都合の次第一あらざる候に付、此段御糾し之有るべく候へ共、深き思召し在らせられ候間、追て御沙汰の儀も之有るべき事」

勅諚を見た容保は驚き、関東への使者は他の者に命じるようにと陳述したそうです

<将軍の帰府から幾日も経たぬうちに即座に御譴責があるようなことでは、「臣」(容保のこと)はその命を奉ずることは不可能である。且つ、攘夷のことは、水戸中納言・一橋中納言共にその任にあるも、未だ断行処分を奏聞できないのは、必ずできない理由があるものと存じる。止むをえぬ場合は自分が関東で建白したように、長崎・箱館のニ港をそのままに、横浜のみ鎖港することがよいのではないか。自分は守護職の大任を奉じており、関東への使者は他に命じてほしい>(意訳by管理人)

しかし、朝議はこれを容れませんでした。

<ヒロ>
実は、容保東下の勅命は孝明天皇の意思とは反する一種の「偽勅」で、急進派公卿の三条実美らが真木和泉ら浪士と謀って、容保に東下を命じ、京都を去らせようとしたものでした(→6月26日の「今日」(こちら)

その理由は、大和行幸/攘夷親征を計画する急進派が会津藩を障害と感じ、容保を江戸に帰した後、勅命により解任させようとしたものだとも(『京都守護職始末』)、また会津藩の交替兵が多数京に登る噂をきき何か事を起こすのではないかと懸念した(『七年史』)ともいわれています。(会津藩は8月8日に藩兵を交替させることになっていますした)

参考:『京都守護職始末』・『七年史』一p360-361、『会津藩庁記録』三p487-488(2000.8.9)
関連:■テーマ別文久3 「攘夷期限」「横浜鎖港問題(1)」「守護職会津藩の孤立と職権確立」「大和行幸と禁門の政変

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