8月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3) 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ

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文久3年6月24日(1863.8.8)
【江】慶喜辞表:一橋慶喜、攘夷期限有無に拘らず後見職辞任を願い出(三度目)
【江】薩英戦争:幕府、軍艦蟠龍に在江戸薩摩藩家老喜入摂津の便乗を許し、
外国奉行支配調役並淵辺徳蔵らと共に鹿児島に急航させる


■後見職一橋慶喜辞表
【江】文久3年6月24日、一橋慶喜は、薩長処分の意見が幕府に容れられないことを理由に、三度目の後見職辞表を関白鷹司に提出しました

このあたりの事情は、慶喜が26日、老中らに渡した書に説明されています。それによれば、
<薩摩(生麦事件の賠償問題)・長州(外国船砲撃事件)処分は国体に関わることである。外国が直接薩摩や長州と交渉すれば勝敗和戦に関わらず幕威を落すことになり、幕府が直接説諭すべきである。しかし、その議論に服しながら、幕府は英国が薩摩に直接交渉に行くことを許した。長州と外国の直接交渉反対にも幕府は同意しているが、薩摩の場合と同様、長州が外国と直接交渉すれば、幕府の威厳は立たず、後患を生ずること疑いない。後見職とは名ばかりでその実がなく、将軍にも朝廷にも申し訳がたたないので、このたび辞表を提出した。このこと含みおき、諸役人にも伝えるように>(意訳はヒロ)

<ヒロ>
慶喜が最初に辞表を出したのは生麦事件の償金支払い後の5月14日でした(こちら)が、朝廷は6月2日、<後見職を元のように務めて将軍とともに攘夷に尽力するように>と辞任を却下していました(こちら)。慶喜は、これに対し、6月13日、重ねて即時攘夷の困難さを伝え、「期限があっては攘夷をお請けできないので辞職を願いたい。内政を整えた上で攘夷に取り組みたいとの願いが聞き届けられれば粉骨砕身したい」とする内容の奏請書を提出していました(こちら)。しかし、今回の辞表は攘夷期限の有無に関係なく後見職の辞任を願いでるものでした

なお、老中は、京都守護職松平容保に対して、慶喜が朝廷に出した辞表を朝廷が許可しないよう周旋を依頼しています。その書には、老中サイドのストーリーが含まれており、微妙に慶喜のそれと異なっています。(こちら)

参考:『徳川慶喜公伝』2・『七年史』一(2000.8.8)
関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別文久3年:「攘夷期限」「生麦事件賠償問題と第1次将軍東帰問題」「慶喜辞任問題

■薩英戦争
【江】文久3年6月24日、幕府は、幕府軍艦蟠龍に在江戸薩摩藩家老喜入摂津の便乗を許し、外国奉行支配調役並淵辺徳蔵・徒目付比留半蔵と共に鹿児島に急航させました(7月17日鹿児島着)

(『綱要』四)

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」「薩英戦争」■テーマ別:「薩英戦争」■薩摩藩日誌文久3

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