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元治1年5月17日(1864年6月20日)
【外国】横浜鎖港交渉使節、フランス政府とパリ約定を調印

■横浜鎖港問題
【フランス】1864年6月20日(元治元年5月17日)、池田長発ら幕府の横浜鎖港交渉使節は、フランス政府とパリ約定を調印しました

約定の内容は以下に整理する通り
(1) 使節帰国後3か月以内に、長州藩の仏国軍艦キンシャン号砲撃(こちら)の賠償として、14万両を仏国公使に支払う。幕府から10万両、長州藩から4万両を支払う。
(2) 使節帰国後3か月以内に、下関海峡を仏船通航のために開く。止むを得ぬときは武力を用い、時宜によっては仏国海軍分遣隊指揮官と協力して通航の自由を担保する。
(3) 両国間の貿易拡大のため、安政五年の日仏条約の履行期間は、仏商人あるいは仏旗のもと輸入される商品に対する関税を以下のように軽減する
無税 茶の包装用品
五分税 酒・酒精物・白砂糖・鉄・鉄器械・麻織物・時計・懐中時計と鎖・硝子器・薬品等
六分税 鏡・陶器・装身飾玉・化粧香具・石鹸・武器・小刀・紙・彫刻品・絵画
(4) 本約定は両国の君主の調印に及ばず履行する


横浜鎖港交渉使節(第2回遣欧使節ともいう)は、文久3年12月29日、仏国公使館通訳ブルックマンを伴い、仏国軍艦ル・モンジュ号に乗り、横浜を出港しました(使節派遣の背景・経緯)。上海で郵船に乗り換え、香港・シンガポール・セイロン・スエズ運河を経てマルセイユに到着。パリには3月16日に入りました。同24日にナポレオン三世に謁見し、将軍家茂の親書を渡して使命を伝達すると、4月2日から5月17日まで、仏国外相等と協議を7回行いました。

使節団の主要目的は江戸に近い横浜の鎖港でしたが、フランス側はこれを拒否し、逆に三港(横浜・長崎・箱館)の自由貿易港化、キンシャン号砲撃賠償、下関通航を主張して譲りませんでした。横浜鎖港が不可能だと知った使節団は、鎖港交渉を打ち切り、他の国を歴訪もとりやめて帰国することにしました。一連の協議における合意事項はパリ約定にまとめられました。

各協議の概容は以下の通り。
第1回 フランス側:カミュ中尉事件の賠償金3万両及び横浜における繭・生糸輸出量増加要求。
使節団:3.5万両支払及び横浜・長崎・箱館に保税倉庫設置を応諾。
第2回 使節団:国情を説明し、横浜鎖港申し入れ。パリ国際会議の提議を要求。
フランス側:文久2年条約不履行を批判。横浜・長崎・箱館の自由貿易港化を要求
第3回 フランス側:仏国軍艦キンシャン号砲撃事件の賠償金14万両(幕府から10万両、長州藩から4万両)支払を要求
使節団:仏国艦隊の下関への報復の砲撃(こちら)により賠償責任無しと主張。自由港には確答せず。
第4回 使節団:留学生派遣の許可を求める。長州処分が行えない理由を説明。
フランス側:三港の自由化、キンシャン号賠償金、下関海峡通航を主張。長州が海峡封鎖を継続し、賠償に応じない場合は、武力をもって対処すると主張。
使節団:賠償金支払(幕府10万両、長州4万両)承諾。使節帰国後3か月以内の下関通航開放、封鎖継続時の仏国・列国の武力行使容認。
第5回 使節団:フランスが横浜鎖港承諾すれば、長崎・箱館自由港化及び横浜居留外国人移転費の負担を容認すると提案。
フランス側:鎖港承諾を拒否。
第6回 使節団:フランス側に帰国を告げ、下関通航の使節帰国後10カ月以内に延期を要求。
フランス側:延期を承諾せず。
第7回 パリ約定を締結

関連:■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」同文久3年「横浜鎖港問題(1)」同元治1 「横浜鎖港問題(元治1)」  ■開国開城「25:横浜鎖港問題と将軍再上洛」、「26:参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」
参考:『維新史』三p222-236(2012/4/8)
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管理人より:
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