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☆京都のお天気:晴南風 (『嵯峨実愛日記』) >第一次幕長戦争へ ■征長副将問題 【京】元治1年7月26日、禁裏守衛総督・摂海防御指揮(総督・指揮)一橋慶喜は、上京を断った前越前藩主松平春嶽に対し、改めて征長副将就任・上京を要請しました。 禁門の変翌日の7月20日、幕府は春嶽の上京を要請しましたが(7/20)、25日、越前藩は、先月来の病を理由に、上京猶予を願い出ていました。この日、慶喜は、越前藩重役の山縣三郎を呼びだすと、春嶽の征長副将就任・上京要請を直達しました。副将を外様藩に命じるわけにもいかず、かといって「御家門之人物無之、大蔵太輔へ被仰付度」、病を押して上京するようにという内容でした。 <ヒロ> 長州追討の朝命を受けて、在京幕府首脳は、慶喜の征長総督・春嶽の征長副将という布陣を決めていました(7/23)。 同日、慶喜は、春嶽に上京を促す書簡を認め、目付戸川鉾三郎に福井に派遣しました。 <ヒロ> 戸川は、慶喜の命により、大目付永井尚志とともに長州の撤兵説得にあたっていた人物ですので、春嶽に、京都の情勢の説明し、上京を説得するには適任だと判断されたのだと思います。それにしても、江戸の幕閣に諮らずに春嶽に要請しちゃっていいんでしょうか? 【京】元治1年7月26日、京都守護職・会津藩主松平容保は、前越前藩主松平春嶽に上京を促すため、書簡を認め、公用人手代木直右衛門を福井に遣わしました。(『会津藩庁記録』によれば、手代木の出立は27日) <ヒロ> 容保は、慶喜同様、「御家門御譜代等人物ニ乏敷、政府之御威光甚無覚束」としたうえで、「皇国」と「徳川御家」のために、病を押して上京するよう促しています。 禁門の変を経て、一会の意見が一致し、連携しています! ※容保の書簡は『続再夢紀事』にも『会津藩庁記録』にも収録されているのですが、書簡の日付が『続再夢紀事』が26日で、『会津藩庁記録』が27日です(不思議!)。受け取った越前藩の日付のを採りました。 参考:『続再夢紀事』三p220、221-223、『会津藩庁記録』五465-466(2018/4/21) 関連:■「開国開城」30. 第一次幕長戦争■テーマ別元治1第一次幕長戦 その他の動き 【天狗諸生】常野追討軍総括田沼意尊、進発。(綱要) 【坂】勝海舟、江戸から京都に赴任途中の老中阿部正外(豊後守、白河藩主)と面談。 |