9月の幕末 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

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文久2年8月16日(1862年9月9日)
【江】久世広周・安藤信正に隠居・急度慎の幕命。
【江】久光叙任:大原重徳、再び島津久光の叙任を求める
【江】長州藩奉勅東下:桂小五郎江戸着

■久世・安藤処分
【江】文久2年8月16日、幕府は前老中久世広周・安藤信正に処罰を行いました。

8月7日に朝廷に対してこれまでの失政を陳謝した幕府は、その責任を幕閣の中心であった久世広周・安藤信正に帰していました。そうした以上両名を処罰せねばなりません。両名は既に老中を罷免されていましたが、勤役中の不正を理由に隠居・急度謹(きっとつつしみ)を命じました。

参考:『官武通紀』・『徳川慶喜公伝』(2003.7.28)
関連■テーマ別文久2「違勅条約調印&安政の大獄関係者の大赦と処罰

■久光叙任
【江】文久2年8月16日、幕府は勅使大原重徳を浜御殿に招いて饗応しました。将軍後見職一橋慶喜は体調不良で欠席しており、政事総裁職松平春嶽や老中が勅使をもてなしました。席上、大原再び島津久光叙任への同意を求めましたが、春嶽も老中も拒絶しました。

この夜、薩摩藩士らは大原の帰邸を待ちうけて叙任について攻め立てたため、大原は困り果てたといいます。

<背景>
薩摩藩では島津久光の家督相続運動が不調に終り、せめて官位でも得ようと思ったのでした。大名・旗本の叙任は幕府の推挙に基づき、朝廷が行いますので、まず幕府の推挙が必要となります。そこで幕府の推挙を得ようと朝廷を動かしたのでした。京都の中山忠能から推任叙の朝旨を受け取った勅使大原は、帰京までにこれを実現しようと周旋するのですが、幕府は同意しようとしませんでした・・・。

参考:『再夢紀事・丁卯日記』(2003.7.28)
関連:■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」■テーマ別文久2年:「島津久光叙任問題

■長州藩世子の大赦奉勅東下
【江】文久2年8月16日、長州藩士桂小五郎が、大赦の勅諚を奉じて東下中の世子毛利定広に先行して、江戸に到着しました。

参考:・『徳川慶喜公伝』(2003.7.28)
関連:■テーマ別文久2年:「長州藩世子毛利定広の大赦奉勅東下」「薩長融和の勅諚改竄


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